孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

ブログ発信の媒体をまとめます

 『はてなブログ』は、noteと並行して長らく日記のように書いてきたけど、この度noteに一本化しようと思う。

 どちらも職場の方々や家族にもその存在を公表していないから(隠しているわけではないが、積極的には言っていない)、私の周りにいる人でさえほとんど知らない、自分一人だけが書いて楽しんでいる極々個人的なものだ。


 固定の読者などほぼいないに近いようなアカウントだけど、退職した職員などの中には感想を聞かせてくれる人もいたりして私自身驚いたりもするから、一応告知しておきたいと思う。


 noteでもここと同様、『孤高の専門学校校長』でやっています。よろしければ見てください。有難うございました。

可愛そう(?)な野菜

冬瓜
 大きさの割に冬瓜は安い。地方の道の駅なんかに並んでる冬瓜たちにつけられた値段を見ると、なんだかあんなに大きく育ったのに拍子抜けする程の安価がかわいそうだ。鶏そぼろのあんかけなんか、心まであったまる絶品でみんなが笑顔になる位美味しいのに!
 しかし何であんなに安いんだろう? あれだけの大きさになるまでには手間もかかるだろうし、運送だって大変なのに。

カボチャ
 炊いたヤツはいいんだ。問題はバーベキューなんかで焼いた時だ。バーベキューの主役は何といっても肉だ。参加の全員が肉を食うためにそこにいる訳だ。だから網の上で豪快に並べた肉を焼く横で、申し訳程度に並んだ野菜は肩身が狭い。みんなでワイワイ食べ始めて少し時間が経った時に、主役である肉の焼け過ぎを予防するために下敷きにさせられたりする野菜、それがカボチャだ。アイツはお肉さまを焦がさないように、自らの身を犠牲にするのである。考えると泣けてくる(笑)

玉ねぎ
 玉ねぎは野菜の汎用性というジャンルに限ると断トツのチャンピオンだ。アイツほど色んな料理に顔を出すヤツはいない。言い換えればどこにでもいるが有難がられないかわいそうな脇役!それが玉ねぎだ。淡路島のマクドナルドでは玉ねぎシェークがあるのだと先輩に言われ、本気にしていた若い頃の思い出がある。あるか!そんなモン!
 でもアイツにだって意地はある。だから切ろうとする人間を泣かすのさ。でもアジの南蛮漬けに入ってる玉ねぎは個人的にホント好きでいくらでも食えるんだなぁ。

キュウリ
 ギネスブックに『最も栄養のない野菜』ってことで記載があるらしい。しかしそれって一体なんだろうね。そんなワーストワンがギネスに載るなら他にも『最も子供が嫌う野菜』や『最も捨てられる部分が多い(歩留まりが悪い)野菜』、『最も腐りやすい野菜』、『最も収穫に時間(手間、経費)がかかる野菜』『最も価格が天候に左右される野菜』・・・とキリがない気がするんだけどなぁ。でもキュウリ、美味いぜ。

 色々勝手を言ったが、逆に花形の野菜って何なんだろう? 鍋の白菜? サラダ界で幅をきかすレタスやキャベツ? 王者の風格を持つ大根? イヤイヤ何といっても世界的に見ればジャガイモか? 一度でいいから野菜たちご本人からそのあたりを訊いてみたいものだ。

回転寿司症候群

 努力の価値がわからない若者たちは想像以上に多いことに唖然とする。どうして頑張んなきゃダメなの?という視点である。努力したら何があるのか、それには価値があるのか、得なのか。若い人ほど明確なベネフィットがなければ行動できないように感じる。
 あくまで私見ながら、現代の若者には精神的な部分での特徴的な弱点が2つあると思っている。1つは『自分の考えを否定された時に自分自身を否定されたと思ってしまう』こと、もう1つは『努力したことが報われない時に理不尽だと感じてしまう』ことである。しかし後者について、若者たちがなぜそんな風にしか考えられなくなるのかが最近わかったような気がしたので、論理が少々飛躍しているのだがここで紹介してみたい。

 夕食の用意をするのが面倒クサいなぁと思い、妻の調子も良さそうだったので、たまには外食でもするかと思って近くの回転寿司店を訪れた私たち夫婦。そして驚いた。満席で待合いにも人が溢れてるではないか! なんなんだ?月末でもないのに! しかしその辺りを走り回るガキどもの格好で事態はすぐ理解できた。その日は近くの小学校の運動会だったのだ。テーブルや待合では似たような声が聞こえてくる。『◯◯クンは今日頑張ったもんねー』というガキに対する大人たちの言葉だ。当然大人に褒めそやされたガキの方はまんざらでもない。
 しかし。その◯◯クンは本当にその日頑張ったのだろうか? 少なくとも特別な報酬をもらえるほど頑張ったのだろうか? 答えは多くの場合『否』であると思う。そう、◯◯クンは全員がしなきゃいけない日常を周囲と一緒にこなしただけだ。個人的に地道な努力をしたわけではないのである。なのに彼には称賛の言葉がシャワーのように浴びせられ、あまつさえ普段一緒に生活していないじいちゃんばあちゃんまでが顔を揃えた宴席が設けられるのだ。・・・何かあるたびにこんなことが◯◯クンに対して繰り返され、彼の人間性の基本になる部分を形成していくのである。

 私はある仮説を立てた。それは《人は努力していないことに報酬を与えられ続けると、努力することに価値を感じなくなる》というものだ。なんせ頑張らなくても褒められたり与えられたりするんだもの、アホらしくてコツコツ頑張ることなどできるものか。
 小さい時からさして頑張ってもいないのに『頑張ったねー』を浴びせられ続けるガキどもは、『努力しなくても報酬を与えられる』と勘違いし、同時に自分の立っている位置の認識がイヤでも高くなる。そしてこの勘違いは、逆に『自分が努力したことが報われない時』には我が身の理不尽を嘆き、周囲に対する不満を持つことになるのである。

 これらを解決するには、努力に正しく見合った報酬を与えるしかないが、幼児期から『非努力性賞賛状態』に晒され続けた人格を後天的に使える人材に育てるのは至難の業だ。可哀想なことにそんな風に子供の人格を歪めてしまうのは、誰あろうその子の親をはじめとする大人たちなのである。私はこの誤った指導姿勢の親によって歪められてしまった可哀想なガキの特徴を病気として捉え、『回転寿司症候群』と名付けた次第である。

ネトウヨとパヨク

 双方の応酬合戦(口喧嘩)をよく目にする。多くはネット上でだ。Twitterというおもちゃは以前なら若者の必須アイテムだったが、我が校の生徒たちを見ていると、今や思春期過ぎのガキしかおもちゃとしての機能は使っておらず、以前中心となっていた若者はそこから離れ気味に見える。もう一つのヘビーユーザーは中年である(と思う)。
 中年のSNSの使い方は単純な自慢(こんなトコに行った、こんなモノを食べた、こんなモノを貰った・・・)や、好きな芸能人の近況に関する感想、また見る人にどう思って欲しいのかが不明な身辺雑記などに加え、政治的な批判や主張をする人も少なくなく、標題の人種はこの政治的な内容の発信に熱くなっている(と思う)。
 私自身は右側の主張の方に比較的納得できることが多いのだが、急先鋒と位置付けられている人の主張の中でも首をひねるものもあるし、右側の論客の主張全てが正しいとは思ってはいないが、以下私の思うそれぞれの特徴を挙げてみたい。

《右寄りの人の意見 ⇔ 左寄りの人の意見》
⚫︎自民の中枢部に散見⇔立民等、ほとんどの野党
⚫︎原発推進原発廃止
⚫︎憲法改正自衛隊を軍隊に⇔憲法守る・自衛隊違憲
⚫︎中韓非難⇔中韓礼讃・優先
⚫︎公人の靖国参拝推進⇔公人の靖国参拝非難
⚫︎天皇は畏れ多い存在⇔本心では天皇制不要
⚫︎産経新聞・正論・hanada等⇔朝日・毎日新聞
⚫︎沖縄の米軍基地肯定⇔米軍基地無くす
⚫︎尖閣竹島は国として強気に守れ⇔争いが起きるくらいならくれてやれ
⚫︎外国人が優遇され過ぎ・日本人優先⇔外国人に優しく優遇する

 こんなところだろうか。しかしどちらにおいてもイヤだなと思うのは、ある論客の主張に盲目的に与する人たちが多いということだ。自分の頭で考えずに、自分が支持する人が主張することに自分のフィルターをかけず、『とにかく賛成』か『とにかく反対』になる。『アベが悪い、日本を戦争に導いている!』といってプラカードを持って駅に集まってる老人などは多分その典型だろうと思う。その活動に参加、または肯定している知人にそれぞれ実際訊いてみたが、そう思う論理的な理由はない。考えなき同調なのである。
 しかしこれは左右いずれにも見られる傾向であり、政治というものは、このように空気で動く人たちの数で決まるのだと思うと情けなく、また恐ろしいと思える。

母と見た夕陽

 小学校5年の1年間というもの、私は普通の小学生にはきっと経験できないような月日を送った。もちろんもっと衝撃的でドラマチックな人生の人もいるだろうけど、戦争も起きていない、独裁者もいない我が国においては、相当特殊な日々だったと思っている。

 会社の金を使い込んだ父は当然のごとく会社を解雇され、家族に累が及ぶのを避けた父は母と離婚することになり、私は兄と共に母方の姓を名乗ることになった。母の実家近くで近所の人とも関わらず、隠れるように住んだ数ヶ月を今でも思い出す。転入生などほぼ存在しないような田舎で、素性のわからない私たち親子は確実に奇異な目で見られていた。

 ある日母の弟、私から見れば叔父が訪ねてきた。普段から激しい気性の人だったが、その日は特に虫の居処が悪かったのか話しの流れが良くなかったのか、母の言葉尻をとらえて激昂した叔父は母を殴った。それも一発二発ではなく。私たち兄弟は泣き叫びながら叔父にすがり、母に抱きついた。しかし大人の男の力である。大声で喚きながら叔父も泣いていた。散々に打ちすえて気が済んだ叔父が帰った後、私たち3人は抱き合って泣いた。

 事件はすぐに近所の人の噂になり、その地にもいられなくなった。引っ越そうにもあてもなければ金もない。その時に救いの手を差し伸べてくれたのは、皮肉なことに父方の遠い親戚だった。私たちはその人の家の2階に居候として一時的に住まうことに決まった。

 引越しの前の日。母は自宅から歩いて10分ほどの港に私を誘った。何をするでもなく沖に向かって桟橋に立つ母と私。母は私の手を繋ぎながら長い時間動かなかった。その時私は10歳だったろうか。学校の奴らに見られたら恥ずかしいので手は離したかったのだが、その時の母は人形のように動かず、なんとなくそれを言い出せなかった。嘘みたいに夕陽が綺麗だった。母は私の手を強く握って何を思っていたのだろう。しかし今思い出しても後にも先にもあんなに悲しい夕陽はついぞ見たことはない。
 間もなく母の一周忌である。茜に染まったあの日の母の顔が思い出される。

病んでしまった職場の同僚に

 『心と体』などという表現であたかもその2つを別々のもののように扱う場合も多いが、精神は肉体の一部でしかないと思っている。『心』といえば確かに目に見えない神秘の世界を想像してしまうのだが、『心』とは何かを考えるに、例えばインスリンが分泌されれば血糖値が下がる例と同じく、『安心した』『怖い』『ヤル気になる』『不安だ』など億万の感情は、頭部という体の一部において(神経伝達)物質が分泌され、その受け渡しをしているに過ぎない。要するに『心』とはモノなのである。そう考えると神秘的なもののように感じている『心』など、薬でいくらでもコントロールできそうだが、そこはなかなか狙い通りにはならない。さらなる医学の進歩に期待するしかない。

 俗にいう『病んだ』と形容される同僚教職員は10年前より確実に増えたように感じる。これまでには接し方がわからず、こちらも振り回されたことも多い。悲しいことに精神的な症状をきたして本来の自分を見失った人の多くは退職してしまう。以下は私のド素人判断の範囲は超えないし、色んなタイプの病気や症状もあるだろうからわかったような顔をするつもりはないんだけど、長年の間に経験し体感したことを、緊急度に応じて並べてみた。しかし全体に言えるのはマズいと思ったら躊躇せず休み、精神科にかかることだ。先延ばししていいことは何もないと思う。

《軽症》早めの対処が何より大事
 頭の中で自分が抱える案件を処理できなくなってる感じ。上手く誘導してあげることができれば、なんということはなかったりする。キャパの小さな人なら、やること(やらないといけないと思っていること)の全容が見えていないだけかもしれない。タスクを紙に書き出すと案外冷静になれたりする。何故ならいっぱいいっぱいになりやすい人は、頭の中だけでセルフパニック状態になっていることが多いからだ。そして何より『1人ではない』ということをちゃんとわからせること。

《中》仕事は休ませた方がいいレベル
 大したことは指示していないから(何を作成してるんだろう?)と思うんだけど、パソコン画面を一日中睨んでいる。理由無く涙が出たりするのもこの辺りからだ。視野が狭くなってるので、自分は理不尽な仕打ちを受けてると思いやすいし、考えを整理できてないから仕事には抜け漏れが多発し、益々自信喪失状態になってしまう。こうなるともう今やってる仕事の進め方や生活サイクルのままでは回復は期待できないと思う。

《重》一刻も早く病院へ
 ボーッとしてどう見てもスイッチが切れている時間が目立ってくる。特に朝、中でも休み明けがダメ。自分自身の存在価値を否定するような発言が出たりして、もはや成果の上がる仕事など全く期待できない。何かに引っかかって急にキレて周りが驚くこともある。こうなったらできるだけ早く現在の業務を中断し、少々の無理をしてでも病院に連れて行かないとダメだ。大変なことになる前に。

 以上は私見に過ぎないものの、これまで痛々しいような場面も何回か経験した上での私の考えだ。

『もしあれやったら』狂騒曲

 もしあれやったら・・・・
 この言葉、関西人が本当に多用する大変なヘビロテワードである。1日に何回聞くだろう。いついかなる時のどのような場面でもこいつにカバーできない事情はないのではないかと思える位である。「もしあれやったら私やっとくで」、「もしあれやったら今回はなしということでええか?」

 しかしこの『あれやったら』の『あれ』とはなんだろうか。そのカバーするところは以下の3つに大別されると思われる。

①相手が面倒クサいと思っていることを自分が肩代わりする時
②事情があってできればそれをはしょりたい時
③切り口を変えた新しい提案(「じゃあいっそのこと・・・」みたいな)

 

 英訳してみよう。きっと
If you don’t mind ・・・(もしよければ・・・)と訳すのが近いなのかなぁ? でもこの微妙なニュアンスまでは絶対英語にはできないよなぁ。『わびさび』が正しく英訳できないのと同じく。

 あくまで「あれやったら」というのは、小さなゴチャゴチャがあり、その解決が面倒クサいのなら・・・のようなメッセージを含有する。だから深刻なやり取りの際にこれを使うと不誠実な人の烙印が押されることになる。決して「もしあれやったら結婚しょうか?」とか「もしあれやったら10万貸してくれへん?」はあり得ない(笑)