孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

国に命を捧げるということ 1

 自分では戦争オタクではないと思ってはいるが、20世紀以降の 特にアジア、太平洋で繰り広げられた大東亜戦争のことについては、クイズでかなりカルトな問題を出されても高得点を取れる気がする(笑) 興味は小学校の頃から始まった。武器や兵器について、作戦や戦術について、指揮官や兵士について、そしてそれぞれの時代の背景に。興味を持ったきっかけは2つある。航空兵として戦死した大叔父の存在と、原爆に遭いながら投下翌日に同僚を探すために爆心地に入った私の父の存在である。

 

 色々なことを調べ、聞き、知れば知るほど、戦争はつくづく悲しく悲惨だ。夢と希望を持って生まれた身にとって これ程の不幸はないと思う。戦争にまつわる悲惨な出来事も色々あるが、その中でも私が胸をかきむしられるような思いがして辛くなるのは、大戦末期に考え出された悪魔の作戦である特攻や上空からの爆弾や焼夷弾に蹂躙された民衆のことだ。自分自身はともかく、親や子にその立場を置き換えてしまうからである。

 

 タピオカミルクティーの行列に並ぶ若者たちには、ほんの70数年前に我が国に現実に起きた この世の地獄は想像しにくいかもしれない。かといって戦争を体験したわけではない私に わかったようなことを偉そうに語る資格などないが、せめて我々が父祖の体験を尋ね、調べて 少しでも後に生きる者に伝えなければ、国に命を捧げた男たちの信念も、これ以上ない悲しみに流した女たちの涙も、家族を守るために歯を食いしばった親たちやひもじさに堪えた子供たちの声も、時間が経つうちに風の中に消えてしまう気がするのである。

 

 

《大叔父のこと》

  大叔父(母方の祖父の弟)が先の大戦において戦死したことは、ずいぶん前から母から聞かされていたが、なんとなく今まではそのことを詳しく知りたいとは思うことがなかった。しかし母も年を取り、兄嫁によると夢とうつつがあいまいになる日も多くなり、一日中寝ていることさえあるらしい。母に残された時間は長くはない。勝手なものでそう思い始めると 居ても立っても居られなくなり、母の終の住みかになるであろう千葉県木更津市の老人福祉施設に 妻と2人で母に会いに行った。

 

 中空を見つめる母の横に座り、もう何もできなくなった小さな手を握りながら、私は子供の頃に触れた 母の柔らかな手の感触を思い出していた。また母が作った料理、母の胸で泣いた日、そして若い頃の強かった母を。あれほどこっぴどく叱られたのに、その種の思い出はなぜか浮かんでこなかった。

 自宅に戻ってからもしばらくは 別れ際の母の寂しそうな顔を思い出したが、母のことを記憶に留めたいという思いと同時に、母から聞かされていた大叔父のことが、なぜか心に引っかかってなかなか私を離してくれなくなっていた。

 

 母が子供〜娘時代に五島列島の実家に住んでいたころ、いとこの男の子を家で預かった。なんでもその男の子はお父さんが戦争で死んで、お母さんもその子のお母さんであることをやめてしまった かわいそうな子だと聞かされて。その男の子の父こそ これから語る私にとっての大叔父である。

 

 特攻隊の航空機が決死の出撃をする日、目的地に向かう途中で 場合によっては故郷の上空を経由できたらしい。もしかしたら死にゆく搭乗員にそれ位の自由は許されていたということか。自ら海軍に志願した大叔父は出撃の日、生まれ育った長崎県 五島列島の自宅上空を通過し、空に向かって手を振る家族に、左右の翼をバンク(上下に揺らすこと)させて別れの挨拶をしたという。それからわずか数時間後に、結婚間もない妻とそのお腹の中には  翌年産まれる息子を残し、国のために散った。27歳だった。

 

 私はまず、鹿児島県にある旧海軍鹿屋基地、今は海上自衛隊 鹿屋航空基地の敷地内にある 資料館に問い合わせをした。その資料館に 特攻で死んだ大叔父の写真パネルが他の英霊たちとともに飾られていると よく母は言っていたからである。しかし電話に出た担当者は、大叔父の写真パネルも戦死の記録もここにないという。私が母や親戚から聞いていた情報は、何かの間違いだったのか?  私はこの調査が長期戦になることを覚悟した。百田尚樹氏の名著「永遠の0」に出てくる姉弟が、特攻隊に所属していた自分の祖父の戦死にまつわることを調べたのと同じようなことが 我が身に起きている不思議を、私は母が巡りあわせた運命のように感じた。資料館の担当者いわく、詳細を調べたいなら厚生労働省に専門の機関があるので、そこで尋ねてみてはどうかと教えてくれた。

 

 

ご担当者様 

 

 前略失礼致します。

 先日鹿屋航空基地資料館に、私の親族について問い合わせをしたところ、厚生労働省の貴援護局のことを伺いました。私事ながら私の母(現在84歳・グループホーム居住)が、自分の子供の頃 自宅に同居していた従弟のこと、またその子の父親が、鹿屋基地から特攻で出撃したということを私に話してくれておりました。親族であるにもかかわらずそのことについては特別な関心も持たずこれまで過ごしてきました。しかし長い時間が経ち、今になってこのままでは次の世代に伝える者がいなくなってしまうという危機感を感じております。認知症が進む母の記憶も既にあてにならず、事実を知りたいと強く思っておりますが、母の実家・親戚からの協力も見込めないことに加え、情報を開示していただく条件である書類を完全に揃わせることができません。

 鹿屋の史料館に、大叔父本人の写真と名前が飾られている、ということも母は申しておりましたが、名簿中には見つけられない というお返事でした。ただ偵察任務で出撃した兵士に関しては、(特攻での戦死にはならないために)名簿には載っていない可能性もあり、厚生省援護局という専門の機関があるので問い合わせてみてはいかがでしょうか?と教えていただき 今回のお願いに至っております。情報を開示していただくには無理があるのかもしれませんが、私としては特攻、あるいは偵察などの任務で出撃し、戦死したことが事実かどうかだけでも知りたいと思っております。

 無理は承知の上ですが なんとかわずかでも事実が確認出来たらと念願しております。

 何卒よろしくお願いいたします。 

 

  

 数週間待った後に届いた返事は冷たいものだった。しかし問い合わせをしている私が その戦死者とどのような関係なのかを証明していないため、情報を提供できないのは当たり前といえば当たり前である。そこで私は次のように考えた。私と曽祖父を戸籍上 直接関連付けることは不可能なので、まず母の住民票を取る。そこには母の父である祖父と、子である私の名前が記載されているはずである。その後、曽祖父(母から見れば祖父)の戸籍謄本を取得する。曽祖父の謄本には 子である祖父の名前と、その兄弟である大叔父の名前が記載されているであろうから、母の住民票の中の記載事項を合わせると、私と大叔父が血縁でつながるはずだ。

 

 しかしここでもう一つの問題が起こった。母は現住所や本籍をどこに置いているのかが不明だったことだ。当たり前だが、住民票は現住所のあるところでしか発行されない。この時代 役所は個人情報保護の観点から 尋ねても教えてくれない。世帯主である兄も そこはわからないという。私は母を扶養する兄の家がある木更津市に申請を出してみた。しかし木更津市に母の現住所はないことがわかった。全く見当もつかないため、これまでに母が住んだ街を歴史を遡って あたっていくことにしたのである。木更津市の前に住んでいたところから順に、千葉市大阪府藤井寺市兵庫県西宮市まであたってみたが、どこもダメだった。なかば意地になってその前の兵庫県尼崎市、2回目の西宮市でやっとヒットした。私が小学校の5年の終わりから中学時代の4年間を過ごしたボロアパートのまま、母の現住所は移動されていなかった。やっとのことで母の住民票を取り、その写しを添えて 五島列島新上五島町の役所に 曽祖父の戸籍謄本の申請を行うことができた。

 

 

新上五島町役場 戸籍ご担当者様

 

 前略失礼致します。
 私事ながら私の母(84歳・グループホーム居住)が、五島の(旧)有川町鯛の浦の自宅で、子供の頃に同居していた従弟のこと、またその父親(母からみると叔父)が、戦時中 鹿児島の鹿屋基地から特攻で出撃したということを私に話してくれておりました。

                — 中略 —

 調査を依頼中の厚生労働省からは、情報開示には、調査依頼主の私と、調査対象である大叔父が戸籍上(血族として)繋がっていることの証明が必要であると言われております。よって、まず「私・母・祖父の関係」を証明するため、私の母の住民票を取得し、(写しを同封しております)、さらに曽祖父の謄本をとることで、曽祖父の子である祖父と、その兄弟である大叔父の関係を明らかにし、改めて厚生労働省に再申請したいと考えております。どうしてもわからない項目(曾祖父の本籍地と生年月日)もあり、戸籍謄本を請求する書類としては 不完全であることは承知しておりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

                                    

 長い時間を待ち、曽祖父の戸籍謄本を添えてようやく厚生労働省に再申請をした。初めて鹿屋基地に問い合わせをしてから 既に数ヶ月が経っていた。この後はこれまでの役所とのやり取りを終え、いよいよ核心となる 日本国の省庁からの返事を待つことになった。