孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

国に命を捧げるということ 2

 大叔父の戦死の記録が厚生労働省から到着したのは1ヶ月程も経った頃だったか。しかし今回の待ち時間は、前回行った戸籍 住民情報を待っていた時間のようにイライラせずに済んだ。なぜなら新上五島町役場から送られてきた曽祖父の戸籍謄本は、私の好奇心と想像力をかきたてる宝箱みたいなものだったからだ。それは間違いなくリアルな私のルーツであり、血の繋がる親戚の大特集なのである。しかも見たことも聞いたこともない人たちがズラリと並んでいる。私は興味が高じて自分の子供にまで繋がった 6代にまたがる母方の家系図を作るに至った。それはそれは楽しくて忙しい日々だった。

 
 その手書きの戸籍謄本には、母方曽祖父のさらに父母の名前まで記載されていたが、当時は誕生日という概念がなかったためか その他の理由からか、そのカップル(高祖父・母というらしい)には生年月日の記載はない。曽祖父は明治14年生まれであるから、その父と母となると江戸時代の生まれであろう。ということは 生まれた時には名字がなかったことになる。名字無しで生まれて、人生の途中からあるなんて なんという不思議なことだろうか!

 

 さて主題に戻る。大叔父の戦死の記録と日本軍の記録を並べてみると、新たな事実が浮かび上がってきた。大叔父は昭和12年、第二次上海事変勃発直後の中国戦線において、中攻と呼ばれた九六式陸上攻撃機で台湾(当時は日本統治だ)の飛行場から、中国本土の杭州に長駆爆撃行を仕掛け 世界をあっと驚かせた いわゆる「渡洋爆撃」を初めて実行した搭乗員だった。いわばその時代のヒーローともいえる人物だったのである。母から聞いていた話とは随分違う事実に私は驚きを隠せなかった。しかし爆撃後に 迎撃の敵戦闘機と交戦の末、撃墜されていたのである。

 

 文字で書くと1行で終わる最期であるが、郷里の家族や結婚間もない妻(お腹には子供)を残して死んでゆかねばならない現実と対峙し、大叔父は無念の思いを飲み込んでそれでも大志に殉じたのか。もし私が大叔父の立場なら 少なくとも心の中では受け入れられなかっただろう。私からは二世代遡った人物ながら その切ない生き様には私自身を重ね合わせてしまう。

 

 片方だけの情報で偏りがあってはいけないので、私は中国側の資料なども調べてみた。その日 まさか海を越えて日本軍の飛行機が飛来するとは夢にも思わなかった中国軍は、突然の来襲に相当慌てたようである。中国沿岸の近海に未確認の日本軍の空母(航空母艦)がいて、そこから発進してきたのではないかとも思ったらしい。しかし中攻は艦上機のように小回りはきかないし、搭乗員も戦闘機や爆撃機のように1人や2人ではなく5〜7人が乗り込む大きな機体である。空母の滑走路の長さで離発着できるようには元々作られてはいないのだ。

 
 台湾(当時は日本統治)の松山飛行場から飛来した日本軍の9機の中攻(3機で編成される小隊 ✖3隊)を迎え撃ったのは、中国(中華民国)の戦闘機隊である。その戦闘で9機の日本軍機中2機が撃墜され、別の1機が片方のエンジンを大破させられた。撃墜された2機の内の1機が、第1小隊3番機に機長として偵察任務で搭乗していた大叔父だったのである。撃墜したのは、当時戦闘機乗りとして中国国内で名をはせた 高志航(こうしこう)、もしくは後に中国空軍公認の最高撃墜数を誇った 柳哲生(りゅうてつせい)であったようだ。もしくは、といったのは2機の中国機が2機の日本機を落としたため、どちらがどちらを撃墜したのかが判明しないからだ。2人の中国人ともウィキペディアにその名が載るほど有名なパイロットであるが、PCの画面で 今大叔父の仇であるその顔を見ても特別な感慨はない。ましてや恨みなど持とうはずもない。一方どこに爆弾を落とせば効果が大きいのかを測定し、爆撃手と連携を取るのが偵察員としての大叔父の役目であった。どちらが良いとか悪いという問題ではない。戦争というのはそういうものであろう。

 

 大叔父たちの いわゆる渡洋爆撃隊は「海の荒鷲」と呼ばれ、その功に対し なんと国より勲章が贈られていることが「同盟旬報」という戦時下の総合ニュース記録媒体にも記載されている。もちろん私は大叔父の顔も知らないが、その名前を紙面に見つけた時には涙を禁じ得なかった。残された家族の末裔である私は今、手を合わせるのみである。またこれら一連の事実がわかり、鹿屋の資料館に大叔父の写真パネルが展示されていない理由がわかった。大叔父は大戦末期の特攻での出撃ではなく、真珠湾攻撃以前の 自爆攻撃ではない戦いで 空戦により散華していたのである。

 

 さてここで1つの疑問が浮かぶ。大叔父はいつの間に特攻隊の作戦で死んだことになってしまったのか? 勲章まで下賜されているのに、である。どうしてもそこだけが解けない謎として引っかかったままであるのだが、以下は私の想像である。


 きっと軍隊というところでは、所属も、どんな飛行機に乗っているのかも、訓練の内容も、ましてや作戦の目的地なども家族にさえ漏らしてはいけない機密事項だった筈なので、私の曽祖父一家は、兵士を送り出した他の全ての家族同様、常に不安と共にあっただろう。戦況などは機密保持の観点から知らされなかったのだから。そんな中、大叔父が戦場で亡くなったという報せが届く。皆が悲しみにくれる中、勲章までくれるという。ただし離島の田舎のこと故、正確に如何なる理由でこのような物が贈られるのかがわからなかったのではないだろうか。様々な噂が聞こえる中で、あの日別れの挨拶をしに来た大叔父の行為について、誰かが「あれは特攻だったのではないか?」と言い出し、「だから勲章なのだ」となり、段々と特攻での戦死が事実のようになっていった、というのが私の邪推である。しかも大叔父が所属していたのは特攻基地として有名な 鹿児島県の鹿屋航空隊であった。後付で辻褄を合わせる材料として不足はない。しかし今となってはもうどちらでもいい。大叔父は再び五島の澄み切った海を見ることなく 日本という国のために、また家族のために喜んで靖國神社に行った。我々が今日こうして平和を享受し、一喜一憂できるのも そのような歴史のおかげだ。またその感謝がなければ英霊に対し申し訳ないではないか。


 私は美容学校の校長をさせてもらっており、美容師を世に送り出す仕事をしている。しかし美容師という人たちは、何だかわからない横文字の名前のシャレた美容院で、時代の先端を生きているかのようにイキがっているが、所詮世の中が平和でなければ到底成り立つ職業ではない。爆弾が落ちてくるかもしれない時に最新のヘアカラーに気を使う人はいないし 敵の飛行機が一斉射撃をしている時にまつげエクステでもない。私たちの職業やその職業を目指す若者を育てる学校などは、危うい平和の上に乗っているだけだ。


 一人の軍人であり親族の最期について 私なりに調べられる範囲で知り得たことで 近い将来どうしても行きたいところができた。靖国神社に、また鹿屋海軍航空基地跡に 息子を連れて。国のためにその身と命を捧げた人たちのことと、一族の誇りとして大叔父のことを私なりに息子に伝え、最後に35年以上訪ねていない五島列島に行き 子供の頃は遊び場であった先祖の墓に参り 手を合わせたいと思っている。