孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

国に命を捧げるということ - 最終章-

 大叔父の最期については私なりに紹介できた。次に私にとって、戦争という悪夢を初めて直接、間接に教えてくれた父のことを話したい。

 父は長崎県五島列島の中にある 名前通りの5つの島とは別の、より小さな 椛島という名の島で長男として生まれた。以後弟や妹が増えていったが、我が父が8歳の時 感染症が元で父親が他界してしまった。父には自分の父親との思い出がほぼ無いという。亡くなった父親を家族で樽型のお棺に入れ、最期の別れにと頭を撫でた時には涙がこぼれた ということを唯一私に話してくれたが、そんな思い出しか無いのが寂しい。

 中学を出ると 長男ならば当時は当然だったのかもしれないが、父が大黒柱として家族の生活を支えることになった。実家の近くにあり 最も稼げた仕事といえば、近海漁の漁船の乗組員になることだったが、父にとっては他の選択肢などなく、そうするしかないし 疑いも持たずその仕事をすることになったようだ。さらに大東亜戦争の末期という時代でもある。漁の仕事以外に 勤労奉仕であろうか、島を出て長崎の街の工場にも働きに行っていたという。職場の先輩に教えてもらい、旋盤を使えるようになっていたらしい。きっと家族を背負わなければならなくなった少年にとっては過酷な毎日であったことは想像に難くない。しかし父が私たち子供にその時代の話をする時にも、一度も苦しかったとか辛かったとかいう類いの言葉は聞いた覚えがない。それどころか船内生活のエピソードや食事の支度のこと、怖かった体験など、実にバラエティに富んだ話を楽しく聞かせてくれたものだ。



 1945年8月9日、その日は長崎での工場勤務の日だった。昼少し前、真夏のことゆえ上半身裸で窓を背に旋盤を回していた父は、室内が外からの閃光で一瞬真っ白になるのを見た。そして次の瞬間轟音とともに猛烈な爆風によってガラス窓が窓枠ごと飛んできて父の体に襲いかかった。同時に父自身も部屋の隅まで吹き飛ばされた。何が何だかわからない状況であったが、父の背中一面にはガラスの破片が容赦なく刺さっていた。父は大きな爆弾が近くに落ちた際の爆風だと思ったらしい。怖さと背中の傷と全身打撲の痛みに耐え、また再び爆弾が落ちてくる恐怖と戦いながら、その日は同室の工員とともに 工場内でほぼ動けないまま 夜を迎えた。しかし爆心地のほど近くにあった(父自身はそんなことは知る由もないが)本社社屋と 、そこに勤務していた同僚たちの安否を確かめなければならないと思い、一睡もできないまま翌朝明るくなるのを待ち 重たい足を引きずって 本社に向かって歩き出した。

 目的地に近づけば近づくほど状況は凄惨さを増し、市内中心を流れる浦上川の川岸には水を求めて力尽きた死体が積み重なり、うめき声や子供の泣き声に混じり、水をください、助けくださいという声が四方八方から父にかけられたという。初めはそんな声に反応したりしていたが、父自身それどころではなく、構っていては前に進めなくなるため、途中からは無視しなければ仕方がなかったことを、父は私に辛そうに話したものだ。

 やっとこのあたりかと思われた社屋付近一帯は建物を含め 何も無くなっていた。父は工場にあった当時としては超高級な貴重品である牛肉の小さな缶詰を1つ持って出ていた。その小さな幸福のかわりにこの世の地獄絵図を見せられたのかもしれない。生きてる人は男なのか女なのかわからない人ばかりで、歩いている人も生々しい火傷を負った人が大半であった。

 しばらくは社屋跡にいた父は、同僚はおろか何の情報も見つけられない。見えるものはこの世のものとは思えない景色ばかりだが、この状況をどうすることもできず、やむなくそこから離れたという。その日父が取った行動は、後に被爆者としてのカテゴリー分けの判断条件となった。原爆投下翌日に爆心地付近に入ったことで、1号から4号まである被爆者手帳の等級では、父は1号の被爆者となった。身体障害者手帳でいうところの1級ということである。しかし父を含め当時の一般国民は、原子爆弾という名前さえ聞いたことはなかったし、放射能の恐ろしさなど知る由もない。



 歴史を振り返ってみるならば その日は原爆の投下予定であった小倉の上空は雲が厚く、地上を目視することができなかったB-29爆撃機は 投下目標を変更し、長崎上空にやってきた。わずかな雲間からのぞいた長崎の街に 人として決して許されない史上2発目の悪魔の兵器が投下された。これも運命といえば運命である。長崎に落ちた原爆によって命を失った若者とその母の物語を、嵐の二宮和也さんと吉永小百合さんが好演した映画「母と暮せば」で描かれた 原爆の炸裂シーンでは、決して現実をそっくり描写することなどできないことは承知しているが、我が父の運命と重なって 涙があふれ 映画館では顔を上げられなかった。今でも長崎の街には原爆投下の爪痕が数多く残っているし、悲惨な逸話には事欠かない。写真も多数存在しているが それを見るのはとても辛い。そんな中に父もいたのか と想像してしまうからだ。

 私たちの親の世代には亡くなった人も多いが、生き残ったにせよ 大小のケロイドや やけどの瘢痕のある人、白血病にかかった人、また体の不調が続いている数多くの人がいる。そんなことがあまり表に出てこないのは、被害を被った人やその家族が被曝して心身症状のある事実を公表したがらないという現実もある。被曝者差別が存在したからである。被曝した人は就職や縁談にも支障があったことは悲しい事実である。

 長崎の街は壊滅し日本は戦争に負けた。そして終戦とともに父は漁師に戻った。前述したように弟、妹が父の下に4人いる。父が金のない悲しさを本当に感じるのは、実は戦後の方が よりきつかったという。弟や妹を学校に行かせないといけない。父は屈強な大人たちに混じってがむしゃらに働いた。「父さんには青春というものはなかった」といつか話してくれた父の言葉は、私の中で後になってすご味を増した。私は 中学を出てすぐ 6人の家族を支えた父を誇りに思っているし、自分の素性を人に話す時は、必ず「漁師の息子」だと自己紹介する。しかし次に来る私の称号は「被爆二世」である。子供の頃から私が体調を崩すと、昔は不治の病の代名詞だった白血病を発病したのではないかとビクビクするとも言っていた。特に私が高校生の時、肝臓を弱らせて全身の倦怠感と散発するじんましんに2〜3週間に渡り悩まされた時には本当に心配そうにしていたことを思い出す。そんな父も5年前に亡くなった。父の葬儀では 弔問に訪れた父の弟や妹が、父に対し 深い感謝の気持ちを持っていることを改めて感じた。

 さて戦争とは国同士の戦いである。日本では70年以上戦争はないが、戦争が起きない理由を 戦争を放棄した憲法があるから、と主張する人々がいるが、それで戦争が抑止できるなら、「日本国内でテロは起きない」とか「交通事故は起きない」とか「地震や自然災害は起きない」など、現実に起こってほしくないことを法律に盛り込めば抑止できることになる。しかし現実にはケンカを仕掛ける方の立場に立つと、仕掛けられる方が どんな主義主張を持っていようが、どんな取り決めをしていようが関係あるまい。我が国の領土が欲しいある国からの脅威からは、こちらが戦争はしないと声高に叫んだとしても逃れられないだろう。



 我が国が不幸にして戦争に突入した時、私には何ができるのだろう?

 大叔父のように国のために命を捧げられるのか? 

 父のように塗炭の苦しみにあっても、家族のために笑っていられるのか?


 この先このような悲しい判断や覚悟をしなければならない事態にだけはなってほしくないものである。