「なのに」と「くせに」
開催中のパラリンピックの話題が毎日ニュースを賑わしている。パラスポーツと呼ばれるものが広く大衆に認知され始めたのは今からどれくらい前だろう。少なくとも私が若い頃には組織だったものとしては無かったのではないか? 知らなかっただけかもしれないが。しかし障害を持つ人たちのスポーツを競技として成立させるのは様々な観点から相当な困難があったものと思う。例えば上肢の部分的な欠損を例に挙げてみても、両腕なのか片腕なのか、またどの部分からの欠損なのかだけを考えても、失われた機能には無限ともいえるパターンがある。そして障害は複合するのだ。右手と左脚に機能障害があったり、車椅子に乗りながら知的障害がある選手もいるだろう。その意味では障害の状況と程度によって、カテゴリー分けは詳細になされてはいるものの、有利な選手とそうでない選手は存在するのだと思う。『スポーツとは勝ち負けではない』という向きもあるのかもしれないが、競技に臨み『勝ちたい』と思う選手の立場に立つと、きっとそうとは言い切れまい。
事故や病気で体の機能を失った人が、『何もかも投げ出したくなった』とか『いっそ死ぬことも考えた』のように一度は捨鉢になることは自然なのかもしれない。しかしそこから不屈の精神力とひたむきな努力で再び生きる気力を取り戻したことに、私たちは感動し心からの声援を送る。健常者は言う。「あの人、腕がないのにすごいね」「目が見えないのにわかるんだね」と。そこには『障害者なのに』という見方がある。いや、確かにすごいんだからいいのだが、私の中では何かが引っかかっている。障害者『なのに』ということに。
実生活では妻以外ではほとんど経験はないが、以前ある男性が乗る車椅子を数時間押したことがあった。いつも押してくれる担当とは違う人に押された下肢障害のその人と私は、しばらくなんでもない話をしていたが、会話をしているうちにその人がボソッと切り出した。「アダルトビデオを観たい」と。きっと私が男だから言い出せたのだと思う。私は初対面の人にこんなこと言うのかと一瞬ひるみそうになったが、「いいですよ。行きましょう」と言って街のレンタルビデオ屋に行った。ヒラヒラした暖簾のかかった向こう側のアダルトコーナーに車椅子を進める。そのエリアには既に数名の客がいた。しかし無言のその方を押しながら、私はあることに気がついた。そのような店では誰でも、できれば他の客にも関わりたくないし関わってほしくもないものだと思うが、私たちの姿を見るとその場にいた客は2度見をしたり、若い連れの2人などは、コソコソ何か耳打ちし合っている。それは間違いなく『障害者でもこんなところにくるんだ!』という視点であり、私はそんな客やレジにいる中年男性が『へぇ。障害者なのにねぇ』と思っているような空気感をビシビシ感じた。当たり前だが障害者にだって欲求はあるし異性の裸は見たいだろう。
日本では障害者の性は表に出ない。性に関してのオープン度が海外とは違うこともあるだろうが、我が国において、なぜか健常者にとっては障害者という生き物が、上澄みだけのきれいなものであると思い過ぎていると感じる。
『なのに』という言葉はまだ許容があるようにも聞こえなくはない。しかし『障害者なのにすごいね!』は『障害者のくせに性欲があるんだ!』と同じ臭いがする。きれいに表現したか、汚い表現をしたかの差があるだけで、同じスタンスなのだ。やはり健常者が上から見下ろした位置からの言葉なのである。
私はノーマライゼーションとは、全ての人が平等になるように、障害がある人に対して助けをすることではないと思いたい。例えば片腕を失った人が、あたかも両腕がある人のように活動できることは必要ではないと思う。無いものは無いのである。無いなら無いなりに、偏見なく普通に接することができて、初めて障害者は特別感や疎外感を感じずに済む。
夏の終わりに毎年ある、◯時間テレビはしばらく前からアホらしくなって観なくなった。巨額のギャラが発生していることや走る理由がよくわからないマラソンなども観なくなった理由だが、最も忌避してしまうのは障害者をダシにした茶番(障害があるのに頑張って生きている!といったお涙頂戴)に嫌気がさしたことである。視聴者を馬鹿にし、また障害者を上から見下ろしているような『愛』は地球を救わない。
しつけと虐待・教育と暴力
子供を教育するのは難しい。小さい時も、思春期も、若者時代も、それ以降も。親である限り。それぞれの時期にそれぞれに色々なことが気になって。親という生き物は子供のことで心配が尽きないものだ。だから我々学校のような、よその家の子供を預かる施設においては、心配性の親御さんは気が気でないのだろう、あれこれとご助言やご指導をいただき、生徒を教育する上で大変参考になる・・・とモンスターペアレントを画期的かつ劇的に美化しておく(笑) しかしホント、この人は病気なのではないかと疑わざるを得ない文句をふっかける保護者も存在し、その場合にはもはや理屈ではなくなる。若い教員は年上世代とのコミュニケーションが苦手であり、何より否定的な意見に弱い。だからこの手のクレーマー保護者に対応する教員は神経をすり減らしたりする。
我が家における話である。我が娘が小学校に上がったばかりの頃。娘はとにかくビデオやテレビが好きで、一度見始めるとやりかけていることも忘れてしまい、テレビの前で動かなくなってしまうことがよくあった。どんなことにも集中できなかった娘だったが、映像にだけは焦点を合わせた。ほとんど無意識だったのかもしれない。ある日、いつものように何度言ってもテレビに夢中になってしまっている娘に腹を立て、「そんなにテレビが好きならくっつけてやる!」と言ってガムテープでテレビに貼り付けたことがあった(今考えればハッキリ虐待である)。しばらく泣き叫んでいたが、私の怒りは収まらず、ガムテープは外したものの、顔を見たくないからと言って、夕食のオムライスは家族と一緒ではなく、自分の部屋で食べるよう言い放ったのだった。
夫婦とまだ小さい下の子で食事を終え、娘がいる部屋の様子を伺ったら音がしない。そっとドアを開けるとオムライスは一口だけ食べられた痕跡を残し、冷めたスープとともに、クマのプーさんが描かれた小さなちゃぶ台の上に残っていた。その横で娘は顔を横に向けて上半身だけをベッドに預け眠っていた。涙の跡を頰に残したままで。
私は次の瞬間、申し訳ない気持ちと罪の意識に襲われた。津波のように後悔の念が湧き上がってくる。なんてひどいことをしてしまったのだろう。娘はどんな気持ちであの一口を口に運び飲み込んだのだろう。娘の心に消えない傷を付けてしまったのではないか。このことは今でも私の心に棘として刺さっている。
しつけと虐待、教育と暴力。我々の仕事においてもこの時代は、授業中「立っていなさい!」はダメだし、ましてや廊下に出すなんざとんでもない。そして当然生徒に対してゲンコツや平手打ちを食らわすなどはいかなる理由があるにせよ『暴力』でしかない。本人はおろか親御さんをはじめとして、誰もそれを愛のあるしつけなどととらえてくれない。
そういえば昔の先生は生徒をバンバン引っ叩いたし、頬っぺたに先生の手の跡を残したまま授業に臨む生徒など珍しくなかった。私が中学の時など、対象の生徒に相対したその体育教員、今それを思い出すと、あたかもK-1のスパーリングのようだったといえば言い過ぎか。親も親でそんな事くらい大したことでもなかったのである。
今は昔・・・。
コロナ 3
いやはやもう黙っていられない。
もはや狂乱の宴である。
コロナが大爆発する。
基礎疾患のない人も重症化する。
年寄りばかりか若い人まで感染する。
入院できずに自宅で行政から放置される、と。
ちょっと待ってくれ。
頭を冷やして、落ち着いて。
まずはニュースを発信する人に訊きたい。
またそれで大騒ぎする人に訊きたい。
陽性、感染、発症の違いを解ってるか?
それらを一まとめにしていないか?
ウイルスが『いる』こと、それが陽性だぞ。
当然発症していなくてもだ。
風邪のウィルスだって喉には一杯『いる』ぞ。
自分の免疫で発症に至らないだけだ。
事実ほとんどの人は無症状か軽症ではないか。
もう一度言うが『いる』だけで陽性なんだぞ!
そもそもどうして『陽性者』が増えたのか?
それは『検査が増えたから』である。
『検査センター』の行列を見たかい?
昨年の始め頃は毎日100件以下だった検査数が、
今年の夏には1日で10万件だ。1日で!
多くの人が知らぬ間に罹りまた治ってる。
だから多くの人が今ウィルスを持っている。
持っているけど発症はしないだけだ。
しかし持っていたら検査では『陽性』だ。
検査が増えれば陽性判定は当然増える。
これが陽性者が増える秘密だ。当たり前だ。
なぜ健康なのに検査するんだろう?
本当にその検査、必要なのか?
世間では検査と陽性判定が乱発されて、
なんでもない人まで病人にされる。
今の決まりではコロナは『重病』だから
入院や施設に入らないといけない。
入れない人は国や行政を無能だと言い、
マスコミがそのことを100倍にして騒ぐ。
医療は逼迫しているとこれまた騒ぐ。
これもコロナが『重病』扱いだからだ。
病床の不足や保健所の職員の過労も、
コロナが『重病』扱いだからだ。
こうなると実効再生算数もあてにならない。
日増しに検査数が増えているのだから。
検査の機械やキットを作ってる会社は、
予算を上方修正しガッポリ儲かっている。
商売に長けた町医者もすぐに検査を勧める。
今や検査バブルなのである。
マスコミによる誘導にまんまと引っかかり、
ビビらされた衆生はオロオロするばかりだ。
もちろん罹らない方がいいに決まってるから、
それではとワクチンを打とうとすると、
ここでもまたマスコミがしゃしゃり出てきて
副反応がどうのこうのと国民を脅す。
子宮頸癌ワクチンの時と全く同じように。
あの時も重篤な副反応は5万接種に1回だったのに、
接種をためらった女性が多数になってしまった。
何なんだ? マスコミって?
どこか敵国の工作員で編成されているのか?
しかし現代において間違いなくいえるのは
世間で大騒ぎしているコロナというもの、
欧州における中世末期のペストとは違う。
水に触れたら罹ると信じていた人々。
それを疑わなかった情報弱者の人々。
令和の今、何も変わっていない気がする。
アイラブユー
『月がきれいですね』。夏目漱石は、英語教師をしていた時、生徒が『I love you』を「我、君を愛す」と訳した際、「日本人はそんな風には言わない」として「月がきれいですね、ぐらいにしなさい」と言ったらしい。まぁ真偽の程はわからないが、私の知る限り日本人は人を『愛する』ことはできたとしても、『愛している』という言葉は流行りの歌の中以外では使わない。そういう意味で英語は便利だ。
『アイ・ラブ・ユー』について夏目漱石氏や尾崎豊さんの歌について語る気はないが、我々が住まう日本という国において、『アイ・ラブ・ユー』という言葉は正確には和訳できないんじゃないか?と思っている。同時に日本語の『愛する』という言葉も英訳できない。上手く表現できないが、『愛する』は『アイ・ラブ・ユー』の何倍も重い、というより立脚しているところがそもそも違うのだと思う。
『アイ・ラブ・ユー』は『大好き』という意味に近いと思う。大好きは一時の感情なので『嫌い』にもなり得る。アメリカ人の離婚率を見るとそれが間違いではないことがわかる。一方『アイ・ラブ・ユー』の訳語とされる『愛する』はそのような薄っぺらいものではないし、また『大好き』みたいな変動性の高い言葉と同義語ではないはずなのだが、日本ではこれらの全てが同じような位置付けにされている気がする。
『愛する』とは、全てが相手ベースであり己を捨てることなのかもしれない。ただし捨てるとはいえ滅私奉公というわけではなく、相手のためにできることが喜びであり、それが自然だということだと思う。だから『アイ・ラブ・ユー』(=『大好き』)の訳として『愛している』は誤訳である。大好きではあるものの愛してはいない人と、結婚という一生を決める重要な儀式などはしてはいけないと思っている。
少し前の話になるが、元女子柔道選手でオリンピック2大会のメダリストである松本薫さんが自身の結婚会見の際に口にした「覚悟」という言葉に、つくづく感心して結婚とはそうあるべきだとうなずいた覚えがある。松本さんは会見で「好きだから結婚するという考えが理解できない」と語った。そんな表面的なものではなく、好きな相手が認知症になったときに介護できるのか、最期まで添い遂げられるのか。そこまで考えて「全部受け入れられる」という「覚悟」ができてはじめて一生を共にできるという考えだったのである。当然浮気即離婚だ。私はそれを聞いて思わず『これだ!』と叫んだほどだ(笑)
私見ではあるが、『大好き』と『アイ・ラブ・ユー』だけで結婚してしまうと、その後残念な結果になる可能性も少なくない。
頭髪問題
ここ最近めっきり少なくなってきた気がする。いや他の誰でもない、私の頭の毛のことだ。おかしいなぁ、決してこんなはずではなかったのに。若い頃は毛量が多くまた硬く、扱いに困るような髪の持主だったはずが今ではどうだ。頭のてっぺん辺りは月日とともに坂道を転がり落ちる石のように加速度がついて寂しくなってきているではないか(笑)
私は美容師なので頭皮・毛髪の生理はわかっているし、内分泌の作用も知っている。私の年齢で頭頂部がウスくなるなら、間違いなく男性ホルモンであるテストステロンが優位になってる訳だが、間違っても私は男性ホルモンがぐいぐいキテいる方ではなく(笑)、どう見ても力強いというより頼りない感じだと思う。
そんなこんなで私はハゲそのものには取り立てて格好悪いという感情は持ってはいないものの、それでもハゲない方がいいかなぁ〜、、、くらいに思いつつのほほんと生きているが、先日ドラッグストアで面白いモノを見つけた。頭髪の薄くなった部分に人工繊維が含まれた着色剤を吹き付けるというスプレーだ。新しいモノ好きの私は、思わず興味本位で一本買ったのだった。
帰宅後早速試してみる。平時臥していることが多い妻は、その日もソファに体を横たえていたが、ちょうど見えている、鏡に対する私の顔がニヤけているとポツリとつぶやいた。知らない間に頬が緩んでいたらしい。しかしこの商品は平素使うことにはならないと思った。効果と情けない気持ちを天秤にかけると、情けない方が重いからだ。
日本という国はハゲに厳しい。テレビを見ていても、「禿げとるやないかい!」と突っ込みたくなるような新郎が結婚式で永遠の愛を誓っていたりするし、英国のウィリアム王子だってあの通りだ。きっとハゲが市民権を得ているのだろう。というより欧米では社会生活を送る上で、禿げていようがいまいが、さして重要なことではないのかもしれない。
今よりさらに毛量を失ってしまうことになれば、私は迷わずスキンヘッドにでもしたいのだが、そこに立ちはだかるのが家族の目である。娘は「ハゲたら嫌やで」と身もフタもなく言い放つ。この世で寿命まで生きるならば、どうあってもこの頭とはもうしばらく付き合わなければならないのだが、画期的な毛生え薬でも開発されない限り、この先は『減る一方』である(笑) しかしハゲ克服の市場は巨大だから、そんな薬が出来てもすんなり商品化されることはなかろう。それで儲けているヤツも多いからね。優れた薬や画期的な仕組みなども、利権が絡んで公にはスムーズに出てこないのが悲しい浮世というものだ。
拭いきれない偏見
喫煙者には拭いきれない偏見を持っている。普段タバコを吸ってる人を見ると、どうしても「この人はイマイチだろうな」と思ってしまうのである。私にとっては「こんな時代にタバコをやめられなかった、自己制御のできない人」と判断してしまうからだろうが、仮に私にそう言われても喫煙者はきっと「はじめからやめる気なんか無い」と言うだろう。それを聞いてさらに私は心でつぶやく。「へぇ、この人はこんな時代にタバコなどという害にしかならないモノをやめようと思わない、自分本位の人か」と。
大声で話す人には拭いきれない偏見を持っている。経験上、公的な場所においても大きな声で話す人は自分を優位に置きたがる人だ。他人より上にいて誰かを笑いたい。でも自分は笑われたくない。馬鹿にされたり軽蔑されたりするのが何より嫌な人。何かのタイミングで仲間外れになったような感じになるとかなりの勢いで逆上したりする。きっと自分の存在意義が無くなってしまうことを過度に恐れているんだろうなぁ。だから『俺はここにいるぞー!」と声が大きくなってしまうんだ。
子供にオンリーワンの名前を付けたがる人には拭いきれない偏見を持っている。なぜだろう、地方に行くほど独特の名前を持った子供が多いように思うが、これはどうしてなのか。私が導き出した答えは、田舎ほどヤンキーと呼ばれる方たちの生息率が多く、その系統の人ほどオンリーワンが好きであるため、子供が産まれると「これなんて読むの?」みたいな名前を付けがちだという説である。さらにその子供は、髪型も独特で高い確率で親の意向でブリーチを施されることになるのだが、親は親で髪は同じくブリーチをしてるし、またタトゥー率が高い。そして彼らの多くはなぜか黒いワンボックスカーに乗っている。
少食の人には拭いきれない偏見を持っている。食は生である。食は生を支える上で最も大切なものだ。人生における全てのものは生の上に成り立つ。要するに食の上に成り立っているのだ。よって食が細いというのは生きる力すなわち生存力も頼りなく、ひいてはそれは社会での競争力の乏しさに繋がっているように感じるのだが。
食はその人の人との関わり方を表すと思っている。きれいに食べる人は対人関係でも品があって破綻がない。(アレルギーを除いて)好き嫌いの多い人は自分以外の人に対しても好き嫌いが多い。そもそもそのタイプの人は、自分に嫌いなものがあることを欠点とも弱点とも格好悪いこととも思っていないから直す気などない。
人の価値は第一印象で決まるものではない。それは百も承知だ。しかし私の中では閉店時間前のスーパーにおいて一部商品に貼られる『半額!』や『レジにて◯割引!』のシールのように、これらのタイプの人たちの能力に対し割引シールを貼ってしまうのである。もちろん偏見であり良くない先入観であるが、決して拭えない。
飲み会
飲み会は苦手だ。いや、そんな優しい表現じゃダメだな。嫌だ。嫌いだ。嫌悪する。
⚫︎注ぎつ注がれつの感じが嫌だ
⚫︎目下のものから目上の人への礼儀が嫌だ
⚫︎「ここらで一曲」とか「一発芸行け〜!」とか「◯◯からの〜」みたいなノリが嫌だ
⚫︎酔って普段と変わるヤツが嫌だ
⚫︎それを許しまた笑いにする風潮も嫌だ
中でも酔っ払うヤツは最も嫌いで近寄りたくもない。寝る、叫ぶ、泣く、絡む、すねる、ひねくれる、自慢する、言葉遣いが汚くなる、悪口を言う、下品になる、・・・。とにかく普段と人格が変わってしまうのがダメだ。『酒の勢い』や『酒の力を借りて』というものは誠実な生き方においてはルール違反だ。しかし最悪なのは吐くことか。何が悲しくてわざわざ金出して酒飲んで吐かなきゃならんのだ? バカじゃないのか? 繁華街の路上の隅にいるゲロってるヤツらには同情するどころか軽蔑の思いしかない。
酔っ払う一因に『一気飲み』というイジメであり暴力である行為がある。今の若者は周りからはやされると、場の空気を白けさせないようにと気を遣って普段あまり飲めない人でも一息に大量の酒を摂取する。美味くもなんともないただの苦い水を、である。そのただの苦い水は2,30分もしない内に体に作用し始める。弱い人にとってはそれからの数時間は地獄である。しかし本当の地獄はそれを介抱をさせられる方だ。
若者にとっては空気は吸うものというより読むものとしての価値の方が大きい。自慢ではないが私なら場が白けようが怒る奴が出ようが痛くも痒くもない。「場の空気」という実態のないもののために犠牲になってはたまらない。
打ち上げ、歓迎会、送別会、新年会、忘年会、親睦会、謝恩会、励ます会、互礼会などは、参加に強制力が働くものなら不要だ。酒飲みたちにとっての酒を飲む口実でしかないからだ。あんなものは必要だと思う人が、賛同する人とだけやればいい。そんなことが半強制になり同調圧力が存在するのは、ある意味民度の低さである。
例えば誰かの送別会において、開催の主旨は去りゆく人との別れを惜しみ、思い出を語りながらその人の将来を願う催しであるはずだ。ところが会の人数が多くなると、ただ酒を飲んで騒いでいる小グループが存在するだけで、別れゆく人のことなど全く話題にもならないどころか眼中にさえない。そんな集まりなら不要だと思うのだ。
私個人としては、儀礼的な意味で開催される人生の節目としての成人式、結婚式やその記念日、還暦またそれ以後の◯寿などの祝事以外においては、『全員集合!』みたいなノリで関係者が集まって酒を飲んで騒ぐのは不要だと思っている。私は酒を飲むこと自体は嫌いではないが、飲み会における飲んで歌って騒いで・・・は毛ほども楽しくはなく帰宅後ぐったり疲れている。