孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

品格

 麻生さんカッコいいなぁ。この度の新型コロナ禍における日本人犠牲者が少ない理由を外国から訊かれた際には「民度の差だ」と答えたというではないか。しかしネット上では諸外国に対し礼を失するのではないかと騒ぐ一群(大体左寄りだ)がいてこれまた品のない話だ(笑)  外国語に翻訳する時には「民度」をどう訳すのかは知らないが、以前からこの民度という価値基準が好きだ。日本人の一番根っこにある価値観は、あくまで他者を思いやる寛容と良識であって欲しいし、まだまだ反省ばかりだけど自分もそうありたい。民度の高低とは、そんな人が国中にどれだけ占めるのか、なのだろう。民度を構成する(と私は思っている)個人の品格について思うところを今日は話しましょうか。

 私は 品格がある=上品 というものに尽きせぬ憧れを持っている。ちなみに阿弥陀信仰では、人が死ぬ際、生前の信仰心によって極楽に連れて行ってくれる道行のグレードが上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)と3段階あり、さらにそれぞれが上生、中生、下生に分かれるから、トータルでは9段階もある。死にゆく人の枕元までわざわざ来てくれる阿弥陀如来に仕え、雲に乗って楽器を演奏する「雲中供養菩薩」たちは上品上生(じょうぼんじょうしょう)の最高レベルのおもてなしの際に登場する。阿弥陀如来の周りでニコニコしながら楽しそうに笛や太鼓、また竪琴を奏でる天人たちを見ると、ああ自分も死ぬときにはあれがいいなぁと思ってしまう。宇治は平等院で彼らが楽しげに演奏する姿を見られる。このように元は仏教用語である上品という表現は、人として高い品格であることを最も的確に表していると思う。

 話は変わるが人の品格は、見た目である程度判断できてしまうことが多い。そしてその見た目を決めるのは、これまでの人生においてどのような考えでどのような行いをしながら年齢を重ねてきたかによるのだろう。優しそうな人は大体優しいし、意地悪そうな人は大体意地悪だ(もちろん例外はある)。人は見た目で判断してはいけないとはいうが、生き方がそのままその人の雰囲気を作るというのは的外れではない。
 多少ピンポイントで例になりにくいのかもしれないが、美容師としての視点から、今日は仮に60歳の女性を例にとって品格をテーマに話を進めてみる(笑)  その方の印象を決めるファクターとして最初にくるのは見た目であることは間違いないけど、その中でもヘアはかなり影響度が高い。ほとんどの方が若く見られたいと思っていると思うけど、ここで《品の良い人は案外白髪を染めない》という定理を発表してみたい。
 品の良い人は自信を持っている。下手に隠さない。年齢による見た目や体の変化に焦っておらず、かえってそこに誇りさえ感じていらっしゃるから白髪を黒くしない。ましてや明るい茶髪なんかにはまず興味がない。見る人はそこにその人が老いを隠そうとする「必死さ」を見ない。だから格好いいんだと思う。そこに品格を感じるのである。

 人は誰でも自分を良く見せたいものだ。大きく見せたい、優れているように見せたい。良く見せるの「良く」が人によって随分違うのでバリエーションが出る訳だ。強く見せたいから暴走行為をしたり、金持ちに見せたいから外車に乗りたいとか。《映え》のために、オシャレなカフェに行くことなんかも目的が卑しいと思ってしまう。人からどのように見られるかを気にするのではなく自分軸でものごとを見れればいいのに。もちろんヘアについても同じで、若く見せたいから真っ黒く染めるとか、お洒落に見られたいからブリーチをしたりとか。「良く」を取り違えてしまうんだなぁ。しかもそれらの行為はあまねく相対的であり他人との比較でしかない。要は自分(に自信)が無いんだろうなぁ。あっ暴走行為以外は、理由がきちんとあるならその行為そのものを否定しているわけではない。誤解なきよう。