孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

障害・障碍・障がい

大阪湾の埋立地にあるテーマパークに久しぶりに家族で行ってきた話。伊勢志摩の古い料理宿に一泊することと、この大阪版夢の国に行くことの2つが我が家のここ数年の恒例行事である。この非現実の遊園地には春に訪れるのが決まりだったが、去年のその時期には例のウィルスに日本中が過剰反応していたせいで、決行は11月末に延期になってしまっていた。師走になると娘が家を出て彼氏と住むということもあって、ご大層なものでもないけど、一家が揃っているうちに家族全員で出かけようってことになったものだった。

さて当日は天気も良く行楽日和ではあったが、コロナの影響で人出は少なかったため、懸念していた来場者同士の密接な接触はなく、また主催側の様々な配慮もあって、感染予防という観点では全く問題を感じなかった。朝夕の混んだ電車に乗っている方がリスクははるかに高いだろう。

この手の施設では感じの良いキャストが車椅子を囲んだ私たち家族に親切にしてくれるから、嫌な思いはほとんどしないで済む。キャストの教育とその水準の維持・管理はどのように行なっているのだろうかと来るたび思う。しかし一方で一般の来訪者というものは色々で、我々のような来場者に対する敵意とも取れる態度を隠さない人もいる。実際特別なパスを使う私たちに向けられる目は必ずしも温かくはない。キャストに誘導されて、一般客が並ぶ列の横に設けられたレーンで車椅子を進めていくと、「ええなぁ並ばんでもいいから・・・」といった類の言葉や、いよいよ乗り物に案内される時など、車椅子を降りた妻が短い距離ながら歩き出すと、「立てるなら初めから歩けよ・・・」という小さな、しかし悪意を内包した声が聞こえたりもする。できるならそうしてるよ、、、。

平素妻は病気の症状と薬の副作用の双方のせいで表情に乏しく、見ようによっては能面のような顔をしているから、普段接していない人には何を考えているのかが大変わかりにくいのだが、上記のような心ない声が聞こえたりすると悲しそうな、また時に怒りの表情を見せる。

妻には見えない心のスイッチがあり、OFFの時には目は開いていても脳は覚醒していない。見えてもおらず聞こえてもいない。言葉を発することもないから睡眠しているのと同じだといつも思う。しかしわかりにくい妻の感情も、問いかけに対する反応の濃淡やわずかな目の動きなどで私にはおおよそわかる。

全く逆のことを述べるようだが、ノーマライゼイションという価値観は崇高である。しかしそれは高齢者や障害者が、健常者と同じことが「できる」ことではないと思う。できないことがあるという事実を埋めることなどできないからだ。できないということを、ことさらに優遇し周りの人が補完したところでそれはノーマライゼイションの精神とはかけ離れているだろう。思うに「ノーマル」というのは「自然」という意味に近いのではないだろうか。障害者だからといって偉そうにしてはいけない。障害者は消えない。できないことも無くならない。そこを受け入れ、特別なことになるならば、それこそノーマライゼイションであると信じる。だから私たちも特別な優遇措置が過ぎたりする、と申し訳ない気持ちと「わかってもらいたいなぁ」という思い(ワガママなのかもしれない)が交錯するのだ。

障碍や障がい、また「がい」と発音することを避けるために「ハンデキャップ」といったりするが、私個人は違和感しかない。