孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

校長あいさつ

 危ない。今年はできなくなるのかな? 少なくとも保護者の参列は難しいだろう。なんの因果か私は校長であるから、卒業式のプログラムの中で「あいさつ」と称し我が校を卒業する若者にはなむけの言葉を述べることを求められる。校長になったばかりの頃はこれに対し大した思い入れもなく、破綻のないどこにでもあるような原稿を作って式典の中でそれを読むことを繰り返した。いわく「桜のつぼみが・・・」とか「大いなる海原に漕ぎ出す・・・」といった類いのヤツだ。専用の用紙に縦書きした上、「式辞」と表書きされた厚手の和紙に包んだご大層なものも過去には使ったことがある。

 私は式典なんかにおける校長あいさつなど、おまけのようなものだと思っていたから、そんなただの「形式」には全くこだわりを持たなかったのだが、ある日ある学校の校長が卒業生に対してかけた言葉を聞いてからは、大切な場面においてこれまで私がしてきた、誰ににも影響しない、意味のないスピーチはやめることにした。心に残らない言葉を発し、また聞くことは人生における時間の無駄遣いでしかないということにその校長は気付かせてくれた。

 振り返ってみると私自身、昔から校長の言葉などというものは、ちゃんと聞いていない。何一つ覚えてもいない。きっと通り一遍のどこにでもあるような式辞など、立派なことを言ったとしても、それを聞いている生徒たちの心には届いていないのである。多分世の中のあらゆるスピーチの中で、聞く人の心に訴えることができるものはほんのわずかだろう。私たち教職員の力不足ゆえ、指導が行き届かないまま美容師という離職率の高い仕事に就かせなければならない無垢な若者たちに、何を言えばいいのか。私の目標は、これまで誰にも注目されてこなかった校長の言葉というものを、何年か経った後で思い出せるような話をすることだ(きっとそんな卒業生はわずかだろうが)。

 まず私は原稿を読むのをやめることにした。読むと目線が下がる。生徒にかける言葉なのに肝心の生徒たちを見て話さないなんてダメだと思ったのだ。原稿なしで舞台に上がるといっても丸暗記ではかえって感情は込めにくいと思ったので、段落ごとにテーマを付け、そのテーマだけは覚えて、最低限話したいことを忘れないようにはした。

 次に自分の言葉で話すために書き言葉をやめて話し言葉でのスピーチにした。ディレクターズスーツの私がスポットの中話し始めると、生徒も保護者も違和感しかなかったのであろう、顔を見合わせたりヒソヒソ話が起きて、それはそれで面白いものだ。その場に座っているほぼ全員が「え?」と思うから、導入の代わりにもなる。

 話の内容についてのルールはシンプルだ。心にないことを言わないことだけだから。前述した、満開の桜だの、人生における旅立ちだのといったどうでもいいような耳触りのいいワードは除外する。そんなことは全く思ってもいないので。卒業生たちの夢を思い、また不安を思い、可能な限り寄り添えるように考えて何度も作り直したものだが、1つの価値観だけははじめから押し付けようと企んでいた。それは我が親に対する感謝である。クサいようだし強引だとは思うが、私はこの気持ちを持てない人は、結局大成しないと思っている。我が親に対する感謝の気持ちも持てない人間に、お客様の気持ちがわかる美容師になどなれるわけがない。

 同じ学園で姉妹校の校長には、登降壇のタイミングからBGMの選曲までこだわる私のことを「誰のための卒業式ですか⁉︎」と薄笑いで批判する人もいるが、「生徒のため」に決まっているではないか。

 卒業する生徒たちの顔を思い浮かべながら、年明けから考えはじめた卒業式におけるスピーチは、プロットが完成しこれから当日までは練習期間だ。