孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

女性蔑視?

 我が国で今年行われるオリンピック開催の責任者が引責辞任した。まさしく日本だけではなく地球上のあらゆる地域からの総攻撃を受け、膝から崩れ落ちた感がある。憐れとみるか、当然の報いと見るか。しかし私は本当にこれは女性差別だったのか?と疑問を持たざるを得ない。以下は完全に私個人の意見だが、「女性が多いと会議が長引く」のは経験上事実である。多くの女性は和を尊ぶから、自分が「イヤな奴だ」と思われたり、誰かが損をしたり傷ついたり、またある人が努力してきたことがムダになってしまったりといったことは全力で避けたがる傾向にあると思う。しかしそうなると新しい斬新な意見はすんなり決まりにくくなるのである。その場にいる多くの人が妙案だと思ったとしても、「次回までの課題ということで・・・」みたいに、決着を先送りにすることも幾度となく見た。改革には出血が付きものだが、その出血がどこかにだけ偏るような議決にはまずしないか、「こう決まっても仕方ないか・・・」となるまで決断しないので時間がかかる。よって女性は優しいが故、少なくとも私が知る限りでは会議が長引くのは一部の例外を除き、必然なのである。しかしこれは女性脳がなせる業だと思う。当然男性には男性の特性があるわけで、例えば今回の件についても、「男ばかりの会議だと決まるのは早いが良く考えられてないから後で問題になったり調整が必要になることも多い」などと発言した人がいたとしても、今回の女性蔑視問題と同様「男性蔑視発言」だと問題になるだろうか? いや、きっとそれはないだろう。

 白いスーツに片手を上げ、にこやかに微笑む女性たちの集合写真などには、正直うさん臭さを感じるし、スポーツ選手や文化人、各界の有名人がこれでもかという位 後出しじゃんけんで集中砲火を浴びせることにも腹が立つ。そもそも女性と男性は違うのである。一般に男は女より力が強い。多くの女は男より複数のことを同時にできる。ジェンダーフリーというのはそれぞれの性差、特性を認めた上での自由なのだから、違いがあって当たり前だと私は思っているが、女性をことさらに優遇することこそ正しいとする考えもあって違和感しかない。例えば「女性活躍推進法」などというものが成立することこそ女性を特別視する差別法ではないのだろうか?

 これは私の感覚だが、有名人や社会的に影響力のある人が「女性は○○である」と女性の特長・特性を発言したらもうそれは女性差別になる。黒人は肌が黒いといったら差別になるのと同じだ。昔の映画で、滑走路上の飛行機の座席に黒人と白人が並んで座っている時、ふと外を見た白人が「気づかない内に外は真っ暗になった」といった意味のことを言った直後に黒人のことに気付いて「おっと失礼」といったシーンがあった。黒人の方は軽く首を振りながら仕方ないといった感じで「いいんだ」と応えたのだが、後で聞くと肌の黒さを連想させる表現で、差別とも受け取られかねないので謝罪したということだったらしい。このような感覚はもしかしたら日本人には理解できず、欧米の方が敏感、いや行き過ぎているんじゃないか?とも感じる。 日本人は背が低いと言われようが、出っ歯と言われようが、カメラを首から下げていると言われようが笑っているだけだ。

 

漢民族には一重まぶたの人が多い

●黒人は唇の厚い人が多い

赤毛の白人にはそばかすのある人が多い 

といった身体的な特徴を口にくちにするのはダメなのか、

 

アマゾン川流域には狩猟時代の生活様式の原住民が存在する

●東南アジアの各国では昆虫を食べる風習がある

●ニューヨークでは犯罪が多い

といった文化の上での特徴を口にするのはアウトなのか?

 

 我々は都合のいい時にだけこんなことを差別だ!といったり、差別ではなく逆にただの笑い話にしたりしていないだろうか? 脚に障害のある人に対し「足が遅い!」と罵る感覚とは絶対違うと思うのだが、事実を言っても差別だと断罪されるなら、何とも生きにくい世の中だと思う。