孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

寛解

 知っている方も多いと思うが、「寛解」という病気の治癒の段階ともいえる言葉がある。完治ではないものの、症状が治まりこの後悪化しないであろうという見込みが立った状態、例えばガンなどであれば再発の恐れが一旦なくなった状態という風に理解している。私の妻もまた持病である心臓の先天的な疾患に加え、発病以来一生付き合っていかなければならないタイプの精神の病を抱えており、この10数年というものはその精神疾患寛解に向けた闘いを続ける毎日であるとも言い換えることができる。

 その精神疾患のせいで妻自身は数ヶ月に及ぶ入院をしたが、周りの家族にとっての問題は妻が入院したことではなかった。その病のせいで妻は「奇行」ともいうべき症状を繰り返した。その中でも手に負えなかったのが「キレる」ことだ。なんでもないことに引っかかり、脈絡のない理屈をこじつけて暴れる。その暴れ方たるや・・・。ロールスクリーンは引きちぎられた。食器棚についてる扉のガラスは粉微塵になった。家の壁は穴だらけになった。家を飛び出したと思ったら近くの国道の真ん中に立ち、裸足のまま両手を広げて車を止めた。その都度彼女を回収し、昂る神経をなだめるために私は翌日の仕事は休んだ。そんなことを繰り返す日々が数年も続いた。
 バイオレンス映画のようなそんな妻の症状が最も酷かった時期、私はその時勤務していた職場を妻の介護及び監視のため退職しなければいけなかった。監視というのは、キレた反動で深く落ち込んだら、親からもらった命さえ枯葉のような重さでしかなくなるからである。多感な時期を過ごさないといけなかった2人の子供たちは、当然かなりの精神的ダメージを受けた。特に下の子は小学生だったこともあり、悲しいことだが妻に対して拭えない憎しみとも憐みともいえない感情を今でも持ち続けている。
 数年前と比較すると妻は自分のことは随分自分でできるようになったものの、今も私は毎日妻と入浴し、妻の髪は私が洗う。自分の髪をシャンプーするのが体力的にきついことということもあり、洗ってる途中で嫌になってしまうからだ。
 妻の髪を洗う時にはいくつかの注意事項がある。その中でも一番気をつけないといけないのは、顔に湯があまりかからないようにすることだ。子供がそうであるように、顔に水がかかることを大変嫌がる。怖いのだ。ましてや目にシャンプーが入ろうものならパニックになる。
 さて風呂からあがるとブローをするのも私だ。横になって一日を過ごすことも多い妻は、洋服や靴、アクセサリーなどの「出かける時に身を飾る」ための色々なものは自分には無駄なことだと思っている。しかし女性である。1日に1度、10分でいいから「きれいになった」と思わせてあげたい。そもそも私は美容師なので、ブローだけではなく、編み込みをして買ってきた小さな髪飾りを髪に付けてあげることもある。私がブローやセットをしている間、妻は目を閉じて申し訳なさそうに髪を私に任せるが、作業が終わると鏡に映った自分をチラッと見て小さな声でお礼を言う。毎日のこの時間が私と妻の目下の幸せといえるのかもしれない。