孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

尋ねてはいけないこと

 少し前から大学や専門学校への入学希望者は、従来のように願書を書いて写真を貼り、印鑑をつくことがなくなった。今やAO選考のためにwebエントリーした後に面接(それさえオンラインだ)を行い、合格すれば正式に再びweb上で出願するという流れが標準になった。当初はややこしいなぁ、大丈夫かなぁ?と思ったものだが、出願者である若者は何の迷いもなくスイスイと手続きを進めてみせる。
 ところでこのAO入試制度だが、建前は入学希望校のスクールポリシーを理解した上、専門学校ならばその専門分野の適正を判断する。我が校であれば美容師としての適性ということになる。しかしその実ほぼ全ての受験者がAO制度を使うから全く特別感はなく、入学希望者の誰もが行うただの入学手続きの一部でしかない。

 ところで初夏のこの時期になると、府からある通達文が来ることが多い。いわく、面接をするなら受験者にこんなことを尋ねないように、といった類のものだ。その内容は文科省厚労省の基準に準じているのであろうが、私個人としては首を傾げるものもある。以下、行政から面接官側である学校対象に、こんなことを受験者に聞いてはいけないよ、と釘を刺されているものを挙げてみよう。


《本人に責任のない事項》
 「本人に責任のないこと」か・・・。確かに本人がどう努力しようがどうしようもないことはある。そのタブー質問の代表格は『本籍・出生地に関すること』だ。本籍は聞いてはいけないことの中でも最たるものだ。
 次に『家族に関すること』。お父さんの仕事や健康状態、また本人の転校の経験の有無もダメ。
 さらに『住宅状況に関すること』住宅の種類や生活環境なども。厳密には「ご自宅は駅から近いんですか?」もアカンのだ。

 人となりを知る上ではこれら諸々のことは少なからず影響があることだと思うのだが。改めて、聞いてはいけない理由を解るように教えて欲しいものだ。今の身長であることも、声が高いことも、暑がりであることも、日本語を話すことも、青色が好きなことも本人のせいではない。でも馬鹿にするつもりでなければ、触れてもいいのではないのかな?


《本来自由であるべき事項》
 思想信条にかかわることは尋ねてはいけない。宗教、支持政党、人生観、尊敬する人物などがそれにあたる。購読している新聞も訊いてはダメなことの一つである。訊きたくもないがなんでダメなんだろう? 例えば入社面接などの場合、面接官が左翼べったりで応募者が産経新聞の購読者だったら合否判断に不利に働くからだろうか(笑)? まぁこれは学校現場では起きないだろうが。

 10年ほど前、我が校の教員が入学希望者の面接において、勉強不足から「尊敬する人物」を尋ねてしまうということがあった。するとその日の夕刻、くだんの高校生が在籍する学校の教員から我が校に電話が入った。「貴校の先生が本校の生徒に、尊敬する人物をお尋ねになったと聞いたのですが、その意図はどういったものなのかをお聞きしたい」と。電話を代わると中年の女性だった。「文部科学省からも、通達がありましたよね?ご存知ないんですか?」。私は偉そうなその物言いにカチンときてしまった。きっかけがあると突如ファイティングスピリッツが沸き起こるのは私の悪い癖だ。私は「指導が行き届かず申し訳ありませんが、でもどうしてそれがダメだとお思いなのですか?」とできる限り嫌味に聞こえないよう聞いてみた。その女性教師にとってはその質問は不意打ちだったのだろう、「信条は自由であるべきで、、、」とまごつく。すかさず私は「ですのでどうしてそれを聞いたらダメなんでしょうね?」と続けた。「それは・・・」。電話の向こうで明らかに狼狽しているのがわかった。国の通達を知らない専門学校の無知教員にマウンティングしようとしたのだろうが、本人自身、目的や意味などよくはわかっていなかったというオチだ。まぁ教員などこの程度のものだ。経験上、長年教員をやっている人ほど自分は正しいと思い込んでいて、反対意見を許さなくなる傾向が強いと思う。
 


《採用選考の方法》
 身元調査などを実施してはいけない。現住所の略図を提出させることなどは身元調査につながる可能性があるという。また障害の有無を訊ねてはいけない。私の考えだがこのことについては、就く仕事に支障が出る可能性がある場合には、応募者の方があらかじめ断っておくべきなんじゃないのかなぁ。応募時にそのことを告知せずに採用され、後で「実は・・・」というのはどうなんだろうね。精神疾患の発病前、嫁さんがパートをしてる時には雇主には嫁さんの障害のことは伏せていた。でもそれはやろうとしている仕事に差し障りが無かったからだ。


 労働局のHPを見ると、上に並べたような質問は差別に繋がる可能性があるのだという。在日外国人の人たち、また社会的弱者を排除することになる可能性があるのだと。しかしそんな考え方こそ差別ではないのだろうか? 私は結婚していわゆる同和地区といわれる地域に引っ越し、そこで10年過ごしたが、便利で住みよい街だった。制度やルールを作る側にある、【対象となる方々が周囲の偏見によって肩身の狭い思いをしないように、素性を明らかにしたらダメだ】といったようなスタンスは、上から目線の考え方なのではないだろうか。選民意識を持つ上流階級の温室育ちが、さも下々の民衆の生活に理解があるように外面を作っているのは、全く鼻もちならない。大地真央さんのCMではないが、そこに愛は無い。

 個人に係る情報が他人にわからないように、とにかく隠してしまうことで理想の社会が来るとは思えない。しかし困ったことに苦労知らずのエリートたちは、そんなことを平等のための措置だと思っていらっしゃる。『女性活躍』『男女雇用機会均等』と同じアホらしさだと私は思うのだが。

 ここからは妄想だが、そうこうしている間に弱者(?)保護はさらにエスカレートし、個人情報の保護と相まって、応募時の願書や履歴書がなくなる。面接もなくなり、入学・入社した後には本名の名札や名刺もなくなる。オンラインが進化して学校の校舎、会社の社屋といった建造物も不要になってしまう。教員が学生の、また上司が部下の顔も知らない・・・。背筋の凍るSFである。