孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

事件 ートイレの詰まりー

 学校というところは、長時間滞在する人が多数存在する。その閉鎖空間の中では当然生物として当然の様々な行いも行われる。食もあれば排泄もあり、好ましいことではないが授業中にもかかわらず時に睡眠があったりもする。尾籠な話で誠に申し訳ないのだが、今日はこの中でも『排泄・トイレ』について話してみたい。


 トイレ関連のトラブルも色々あるが、その際たるものはトイレが詰まることだ。原因は様々だが、とにかく排水管のどこかに何かが引っかかっている。
 日本という国は「湯水の如く・・・」の言葉通り、とにかく水が豊かであり、タダとは言わないが我々の頭の中ではどこかで水はいくらでもあるもの、と思ってはいまいか。


 ヨーロッパの現地人ガイドは、日本人観光客はとにかく水を流し紙を使うと口を揃える。なぜならヨーロッパ各国の水事情はホント頼りないからである。水というものの価値が日本の10倍はある気がする。喫茶店では注文する前に水など出てこないどころか、その『水』がコーヒーやジュース類と同列に、注文する際の選択肢の一つであることにはじめは驚いたものだ。
 日本人(の特に女性)はトイレで用を足す時、水を流す。音が聞こえないようにだ。そして紙も大量に使う。最後にそれらを一気にドバッと流して終わりなのだが、この行為をヨーロッパでやったらどうなるか? 彼の地で水洗トイレの水を一度流したら、少ない水量と低い水圧により、次にタンクに水が貯まるまでに相当な時間がかかる。そして便器内には水を吸って一体化してしまった大量の紙が積もっている訳だ。タンクが満水になるのを待ちきれない日本人はそこで再び流してしまう。しかし結局紙が詰まって流れない。だから中の人は出るに出られない・・・。ツアー客がトイレに長蛇の列を作る理屈である。その点現地の人は早い。音消しなどしないし紙の消費も少ない。あっという間に出てきて、回転もいいものだ。
 あの『音がして恥ずかしい』という感覚も我々日本人だけが持つ思いなのだろうか? しかしそれだけに限らず、日本人以外の人たちは排泄という行為に対し、ええかげん過ぎないか?と思う。もちろん全ての人種や民族のことまではわからないが、これまでに訪れた国々で、衛生的なトイレが衛生的に使われているのを見るのはホテルの部屋の中だけだったような気がする。パリの街中のお洒落なカフェのトイレでさえ、「なんじゃ、こりゃ!」と叫びたくなる時もあった。


 ところで我々の住むここは、水事情の良い日本であり、設備の行き届いた学校のトイレである。しかしそうであるにもかかわらず、なぜかトイレは三月に一度は詰まる。使い過ぎたトイレットペーパーが通り道を塞ぐ。もちろん何らかの落とし物が水の流れを邪魔している場合もあるが、トイレが詰まった時、絶対してはいけないのが「さらに水を流す」ということである。その後の大変さを知らずにエイ!っと流してしまうと、便器を溢れた汚水は床に広がり、目を覆うような惨劇を体験することになる。
 さてそんなわけでトイレを詰まらせてしまう生徒は後を絶たない。そんな時に登場するのがラバーカップである。我々は通称『スッポン』と呼んでいるのだが、正しい名称なのだろうか(笑)? 


 言ってはなんだが、私はかなりのスッポンの使い手である。もはやプロといえる。これまで数々のトイレの詰まりをこの手で解決してきた。中には何度、また何人トライしても取れなかった詰まりでさえ、ズボっと流してきた歴史がある。自画自賛になるが、これまでの私のスッポンの歴史は、輝かしい経歴ではないだろうか。
 そう、私は伝説のスッポニストなのである。