孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

『多様性』➖性的少数者編➖

 性的少数者の人びとの社会への参加機会が不十分であるとして、とある支援団体が政府に向けて出した声明文を目にする機会があった。いわく『(中略) 嘆かわしいことに日本の現状は、オリンピック憲章、オリンピックアジェンダ2020、そして国際人権基準に合致しておらず・・・』というものだ。その中では、日本は当然制定されているべき、性的少数者の法的保護がまだまだできていないと訴えている。また今回の東京オリンピックは日本という国の姿勢を世界に示すことができる絶好の機会であるとして、LGBT等の人びとに対する差別撤廃の方針を全世界に向けて発信すべきだとも。

 しかしもしこのような考えがスタンダードになれば、今までになかった問題が起こる懸念もある。例えば性自認で自分の性を選択できるとすれば、スポーツ競技はどうなるのだろう? また『自分は女だ』と言えば女性用のトイレや更衣室、はたまた公衆浴場なども公に使える訳で、それは正しいことなのだろうか。そして全ての人が認め、誰も傷付かないことなのだろうか。そんなことを考えていくと、自分は『女』または『男』でありたい、またはそれが必然だと思っていることで性別を決定するべきという考えは怪しくなってくる気がする。

 実際に、男として生まれ現在は女性として生きているトランスジェンダーの中学校教師が、転勤先の学校の校長から、トイレは男性用か多目的トイレを使うように指示され傷ついたということがヤフーニュースに紹介されていた。この教師は、自分が女子トイレを使うことを他の女性教員がどう思うかを調べるため、女子トイレにアンケートボードを置いたらしい。その結果、圧倒的多数の女性教員がイヤがっていることがわかったということだ。

 仮に、性的指向性自認に基づく差別を禁止する法律を作り施行した場合、どんな効果があるのだろう? それは『あるカテゴリーの人』を特別な位置付けに置いて優遇するということになりはしないか? 以前介護の資格を取得した際、ノーマライゼイションの精神とやらを学んだのだが、ガッカリしたことを覚えている。そこでは、高齢の方や障害のある方を優遇することこそ平等な世の中だと教えられているように感じたからである。弱者を優遇してもそれは平等ではなく、ノーマライゼイションの精神とはかけ離れているのである。

 件の中学校教師については周囲の女性教員がマイナスの生理的感情を持っている。この事実に対し「そんな風に思うことは人権的に問題がありますよ」と諭したところで解決はしないと思う。生理的にイヤなものはどうしようもないからだ。また、生まれた時は男の体だったトランスジェンダーのスポーツ選手が女子選手として、元々女性だった選手と同じカテゴリーで競うことに、私自身は公平性が保てないと思っている。男の体に生まれてしまったことに同情はするが。