孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

『多様性』➖人種編➖

 大国アメリカでは150年以上も前に奴隷解放令が出たにもかかわらず、黒人問題は今でも為政者が匙を投げている絡まった糸だ(と私は思っている)。黒人が白人警官に暴行される事件が起ころうものなら、それだけを見て短絡的に黒人差別だと思ってしまうことは黒人差別である。しかしそのことに気付かないのは、自分の頭で考えるという習慣がないために、残念なことに洗脳されてしまった結果だと思う。

 この《黒人⇔白人》の図式はこれまでの歴史においても時代時代で対象となる人を取り替えながら、発生するたびに大規模な暴動のきっかけになったりしている。私はあれがはじめ不思議で仕方なかったのだが、理由を考えた結果ある結論に至った。それは、アメリカではひと度人種差別だと言われかねない(全くそのような事実がない場合でも)案件が起きた際、人種差別だと騒ぎたがる一群に寄せたスタンスをとらねばならない、というものだ。そうしなければ世論が収まらないのである。そしてそれは最早アメリカ国内だけでは収まらないところまでいってしまうのだが、私はその短絡的な流れには大いに違和感を感じる。偏っていると思っている。犯罪者は全ての人種に存在するだろう。であれば白人の犯罪者を逮捕する際に黒人警官がボカスカ殴ることだってあるに違いないのに、それは騒ぎにはならないのはなぜか? 百歩譲って警官が犯罪者に不当な暴力を振るったことに抗議するだけなら共感できるのだが。人種問題をなぜ絡める?

 少なくともアメリカにおいては17世紀の東海岸ジェームズタウン以来植え付けられた、有色人種に対して白人種が持つ格差の感情は恐らく今後も無くならないだろう。白人は心のどこかで有色人種を自分たちより下に、しかし特別なものとして位置付けることを続け、全ての人種が同等であるとはおそらくいつまでも思わない。なぜなら白人種にとっては、そう思うのはあくまで自然なことであり『理屈』ではないからだ。きっとそれは白人社会の中では、生まれた瞬間以後、育った環境の中で刷り込まれ続けた結果なのである。

 

 少し前に欅坂46のコスチュームに対しユダヤ人虐殺の戦争犯罪を想起させるという理由で、欧米各国が問題視するという事件があった。中でもアメリカのユダヤ系人権団体は嫌悪感を露わにし、謝罪を求めるというところにまで至ったと聞く。しかしさすが日本人は波風立つことを極端に恐れる民族である。今後このような衣装は一切使用しない旨のコメントを発表し、秋元先生を含め関係者が平謝りに謝ってコトを収めたらしい。
 しかし欅坂の女の子たちが着ていたコスチュームはナチス親衛隊の制服に似ているからホロコーストを擁護していることになるのか・・・。う〜ん。

 戦争における忌まわしい過去を想起させるものがダメだというのは、日の丸君が代がダメだと訴える考えに通じるものがある。映画でいえば有名なものだけでも『永遠のゼロ』や『風立ちぬ』も槍玉にあがったし、その批判は最近封切られた『進撃の巨人』にまで及ぶ。ダメだと騒ぐ人達にとっては、戦いはすなわち意味のない殺し合いで戦争賛美であり、死ぬことは理屈抜きに忌み嫌うことなのだろうか。なぜ戦ったのか、なぜ命をかけたのか。ここにこそ意味があると思うのだが。

 狂信的な選民思想を持った絶対君主に対し、恐怖に意見など言えなくなった取り巻きや、何も考えず追随したその他大勢。私はその時代は生きていないが、現代における差別といわれるものも、なんだか似たような構造である場合も少なくないと思っている。