孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

『センセイ』?

 人が人を教えるというのは、ちょっと考えれば崇高で重要なことだとわかりそうなものだが、「先生」と呼ばれることに責任感を感じていない教員は実際に存在する。

 

 例をあげるなら、生活のために選んだ職業がたまたま教員だっただけの人。本人は働く意味を問われれば、格好をつけるために生き甲斐とか生徒の笑顔が喜びとかなどという言葉で 自分の職業を修飾するんだけど、結局その毎日は生徒のためにあるものではないので、ちょっと気に入らないことがあったらすぐ自分には向いてないと考えたり、簡単に退職を口にしたりするタイプともいえる。言い方を変えれば、生徒の将来より自分の気持ちを優先する人だ。経験上なぜか被害妄想が強く、文句だけは一人前であることが多い。


 教員という仕事に特別な価値も持たなければ、当然矜持を持つなどという意味もその価値もわからない。自分が信じる教育上の理想を指導に盛り込むことは教員の義務だと私は思っているが、そんなことは眼中にないから、誰にでもできることをたまたま自分が担当するような仕事の仕方しかしない。ましてや他人や他部署の成績など全く気にしない。プラスアルファを求めず、悪い方で目立たなければいい。しかしこうしてクソミソに言いたい放題に叩いているものの、残念なことに現在の小中高、また我々のような専門学校の教育現場にはこのタイプが少なくないと思わざるを得ない。

 

 思うに良い教員になろうとすると、割に合わないことになる。なぜなら教員としての優れた仕事というものは、掘っても掘っても終わりがなく、『生徒を優先するか、自分や家族を優先するか』のせめぎ合いの連続になるからだ。だから割に合わないのが嫌な人は、初めから教員などをしてはいけないと思う。自分が指導する若者の将来のために汗をかける、またしんどい思いをする覚悟がある人にしか、生徒に対する影響力=求心力のある教員にはなれない。しかしそれらの『苦行』は、あくまで好きでやっているに過ぎない。やらなくても済むのに、あえてやっているのである。完全週休2日、9時5時で残業無しがいいなら、違うお仕事をするべきだ。


 教員たるもの、といえば高圧的に聞こえるかもしれないが、教員であるなら『先生』と呼ばれるに足る自分でなければいけない。足りないところがあるなら、それを埋めようとするのは、努力目標ではなく必達の義務だ。