孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

寛解

 知っている方も多いと思うが、「寛解」という病気の治癒の段階ともいえる言葉がある。完治ではないものの、症状が治まりこの後悪化しないであろうという見込みが立った状態、例えばガンなどであれば再発の恐れが一旦なくなった状態という風に理解している。私の妻もまた持病である心臓の先天的な疾患に加え、発病以来一生付き合っていかなければならないタイプの精神の病を抱えており、この10数年というものはその精神疾患寛解に向けた闘いを続ける毎日であるとも言い換えることができる。

 その精神疾患のせいで妻自身は数ヶ月に及ぶ入院をしたが、周りの家族にとっての問題は妻が入院したことではなかった。その病のせいで妻は「奇行」ともいうべき症状を繰り返した。その中でも手に負えなかったのが「キレる」ことだ。なんでもないことに引っかかり、脈絡のない理屈をこじつけて暴れる。その暴れ方たるや・・・。ロールスクリーンは引きちぎられた。食器棚についてる扉のガラスは粉微塵になった。家の壁は穴だらけになった。家を飛び出したと思ったら近くの国道の真ん中に立ち、裸足のまま両手を広げて車を止めた。その都度彼女を回収し、昂る神経をなだめるために私は翌日の仕事は休んだ。そんなことを繰り返す日々が数年も続いた。
 バイオレンス映画のようなそんな妻の症状が最も酷かった時期、私はその時勤務していた職場を妻の介護及び監視のため退職しなければいけなかった。監視というのは、キレた反動で深く落ち込んだら、親からもらった命さえ枯葉のような重さでしかなくなるからである。多感な時期を過ごさないといけなかった2人の子供たちは、当然かなりの精神的ダメージを受けた。特に下の子は小学生だったこともあり、悲しいことだが妻に対して拭えない憎しみとも憐みともいえない感情を今でも持ち続けている。
 数年前と比較すると妻は自分のことは随分自分でできるようになったものの、今も私は毎日妻と入浴し、妻の髪は私が洗う。自分の髪をシャンプーするのが体力的にきついことということもあり、洗ってる途中で嫌になってしまうからだ。
 妻の髪を洗う時にはいくつかの注意事項がある。その中でも一番気をつけないといけないのは、顔に湯があまりかからないようにすることだ。子供がそうであるように、顔に水がかかることを大変嫌がる。怖いのだ。ましてや目にシャンプーが入ろうものならパニックになる。
 さて風呂からあがるとブローをするのも私だ。横になって一日を過ごすことも多い妻は、洋服や靴、アクセサリーなどの「出かける時に身を飾る」ための色々なものは自分には無駄なことだと思っている。しかし女性である。1日に1度、10分でいいから「きれいになった」と思わせてあげたい。そもそも私は美容師なので、ブローだけではなく、編み込みをして買ってきた小さな髪飾りを髪に付けてあげることもある。私がブローやセットをしている間、妻は目を閉じて申し訳なさそうに髪を私に任せるが、作業が終わると鏡に映った自分をチラッと見て小さな声でお礼を言う。毎日のこの時間が私と妻の目下の幸せといえるのかもしれない。

教育における盲目的な勘違い

●「努力は裏切らない」という勘違い

 人生において努力は必要である。輝いている人は間違いなく努力している。しかし悲しいことに努力が報われないことも多い。悲劇なのは、「努力は裏切らない」とすり込まれ続けた結果、努力することそのものが、向上心ある自身の生き方におけるアイデンティティであるかのように誘導されてしまった、筋肉脳人間の存在である。彼らは「頑張る」という伝統を履行することのみに価値を感じている。成果や効率を考えることをせず、とにかく目の前にある与えられたことに盲目的に信じて行う。これを悲喜劇と言わずして何と言おうか。
 あることへの取組みとそれによる成果という意味では、努力は裏切る。実社会において全ての努力が裏切らないことなどあり得ようか。わかりやすくいえば、与えられた業務は自分の責任として、成功させなければならない、または成功に向けて努力をしなければならない。しかしその努力は無駄に終わることも多いのである。かといって努力をしないという選択は許されない。手を抜いた仕事に成果はついてこない。よって裏切らないのは努力した方ではなく「努力しなかった」方だ。マジでこっちは裏切らない。


●「自分」というものの捉え方の勘違い
 いつの頃からか若者が周囲の顔色を過度に気にするようになった。今の若者にとっては「他人から見た自分」が自分の生き方なのである。少なくない若者が、自分が何になりたいのかわからないという。しかしそうなるのは当たり前じゃないか、とも思う。なぜなら自分が無いのだから、自分の意思や考えも無い訳だ。
 以前、自分の主張をしたり周囲の流れに合わせないヤツをたしなめる“KY”という言葉(?)が流行した。個の埋没に汲々とする若者の芯の無さはどこから来るのだろう?と考えたことがある。そして「協調性を持ちなさい」「他人と合わせなさい」と言われ続けた教育の結果なのだという結論に至った。鬱屈した「自分」は水面下に潜る。だから自信はないくせに、決して自分を否定されたくないという人格が形成されることになる。これはうがった見方だろうか?
 さてしかし最近はそのようなタイプの教員が増えてきた。自分を持たず自信のない教員ほど、はみ出した生徒に過度の苦手意識(嫌悪感、敵対心、マウント意識)を持っている。なぜなら言うことに従わない生徒は、自分の教員としての理想を叩き壊すし能力を否定されていると感じているからである。
 恐ろしいのは、そのタイプの教員は、そのような反体制的な生徒をどう押さえ込むかが教育の目的になっているところだ。しかし反面、自分は生徒から嫌われたり否定されたくないから、常に生徒の顔色を伺って彼らの要望は否定しない、まるで孫に嫌われないようにするために金やモノで気を引く老人のようである。

意味のない言葉

 日本語には感情が全く乗らず、また意味のない言葉が存在している。存在していても仕方のないような言葉が、ほぼ無駄に使われる現実。日本独特の価値観なのかもしれないが、それを聞いているほぼ全員が違和感を感じていないことは怖いと思うのは私だけか?


《政治編》
 大変政治的な言葉である「善処いたします」。政治家の口から発する「善処する」は、大阪人にとっての「行けたら行くわ」である。達成に向けて検討するように聞こえる言葉であるにも関わらず、まず大半はそのことについて、努力どころか何もしない。
 さてかなり前の話になるが、ニクソン米大統領が我が国の佐藤栄作総理との首脳会談で、大統領からあることを迫られた時の話が、日本人の国民性がよく表れているから面白い。
 大統領から出されたある提案に佐藤総理は「善処します」と答えた。そして通訳はその言葉を I will do my best  と訳してしまった。残念ながら日本語の「善処します」や「最善(全力)を尽くします」は、英語の do my best  ではなく、「ではまた」みたいな別れ際の慣用句でしかないことを通訳が知らないはずはなかったろうにと思うのだが。大統領はてっきり提案をのんでくれるものだと思っていたから、後刻届いた返事が「NO」であったことに、アメリカ側の要人たちは皆ズッコケたという笑えない笑い話である。いやぁ日本的だ。


《スポーツ編》
 なんとなくわかったようでわからない言葉はスポーツ界にも及ぶ。スポーツ選手がよく使う「チームで心を1つにして」や「1人は全員のために、全員は1人のために」など。また「自分たちの◯◯◯(競技名)ができるよう頑張ります」なんてのもある。例えばチームで心を1つにするにはどうすれば良いのか? 自分たちのサッカーってどんなサッカーなのか? はばからず言うなら私はこのような表面だけの耳障りの良い言葉には嫌悪さえ感じてしまう。以下例を挙げてみよう。


 試合前の監督指導:『ええか!心で負けたらあかんぞ!大事なんはピンチの時にどんだけ全員が集中できるかでそのピンチを跳ね返すか?や。みんな全力で行け!』


 続いてキャプテン:『前の試合の時、声出てないヤツもおったけど、今日は全員が声出していくで!気合い入れていくぞ!』 


 全員:『オー!!』

 

 全く具体的な指示のない監督の檄に、何が正しくてどうしていいかわからない可哀想なキャプテン。精神論でスポーツを、特に団体競技をする時代はとっくに終わっているのに、まだまだヤル気万能論が幅をきかすジュニアのスポーツ界。練習における宗教がかった質より量のメニューは、指導者自身が経験してきたものを連綿と続いている伝統だったりする。成長や上達のためとは言い難いそんな繰り返しに、将来有望な選手たちはよかれと思って意味のない努力を重ねるのだ。


《エンターテインメント編》
 時折ライブに行く。単純にその人の音楽が好きで、臨場感の中でその独特の空気を共有したいから。よって演者からの「あおり」は全く不要である。「OSAKAァァァ!」と叫ばれても、そんなことは知ってるし、どう応えるのが正解なのだろうか。さらに終盤近くになった時、「まだまだイケますかぁぁぁ⁉︎!?」みたいなことを聞かれてもなぁ。いけるかどうかが問われるのは表現者の方だし、私は単純に、また純粋に好きな歌を聴きたいのだ。それ以外の理由は無い。また、しんどいので座って聴かせてくれないかなぁ。
 好きでFMを聴くが、ラジオのDJという仕事は本当に大変だと思う。TVみたいに収録というものがなく大部分は生放送だから、カミカミ星人では務まらないし、何よりPOPSをはじめとする音楽界に通じていなければならない。またカッコ良く原題での曲紹介が必要な場面も多いから、英語の発音も問われたりする。そんなDJの口からよく聞く言葉がある。それは「是非一度チェックしてみてください」というものだ。あれは一体なんだろうか。チェックって何(笑)?どうすればいいの? Check it out  のCheckなのかな?とも思うが、日本には「チェキラ!」みたいにまさしくペラペラになってしまった可哀想で意味のほぼ無い英語も多い。

時代考証

 今回は少々うるさいことを言いたい。何かといえば、歴史上の風俗を描いた作品における時代考証についてである。私はこの分野では一応プロなので、どうしても捨て置くことができず、いつもテレビの前でツッコんでいたのだが、「るろうに剣心」や「銀魂」なんかはフィクション度が高いと思えるから勝手に納得しているのだが、時代劇はいけない。ツッコむ気持ちを抑えられないのである(笑)   以下「そこまで厳密にせんでもええやん」という声は無視して、強引に所感を述べてみたい。

 

水戸黄門

 日本の時代物のドラマや映画は、江戸時代という二百数十年に及ぶ長い期間における文化や風俗について、一律に語り過ぎである。時代劇に登場する女性の髪型(いわゆる日本髪)は、ほとんどが丸髷と呼ばれる幕末~大正時代頃に流行した既婚女性のスタイルで統一されている。丸髷は「水戸黄門」にもバンバン出てくるのだが、このドラマは江戸時代の初期が舞台であるはずである(水戸の黄門様は徳川家康の孫であり、江戸時代になってから数十年しか経っていない)から、その頃に女性たちはそんな髪型をしておらず、一般人レベルでは通常垂らした髪を肩や背中のあたりで簡単にくくっている程度であり、髷(まげ)や鬢(びん)のあるような日本髪をしている人、オマケにあんなきれいに櫛目の入った髪型であるはずがないというのが一つ目のツッコミどころだ。そして二つ目の違和感が、おばちゃんであろうが若い町娘であろうが同じ髪型であるという無茶である。

 また着物も違う。そもそも「着物」ではなく小袖というべきなんだけど、面倒クサいのでここでは省略。当時の着物は裾がはだけるのを防ぐために「着物」の前の部分(身頃、衽)の横幅がやたらに広い(左右の重なる部分が多い)。なぜ「はだけ防止」が必要なのかといえば、当時の女性は正座をする人は少なく、立膝やあぐらだったからである(正座は江戸初期~中期頃から徐々に広まった)。

 また当時の女性は結婚すると歯を黒く染める(お歯黒)のが身だしなみだったし、子供が生まれると眉を剃った。今の価値観で見ればビジュアル的にかなりのインパクトがある感じになってしまうが、昭和に作られた時代物の映画なんかには忠実に再現しているものもあって面白い。ちなみにおひな様の三人官女も、真ん中の女官は唯一既婚者だからお歯黒で眉がないことを知る人は少ないんじゃないだろうか。

 由美かおるさん演じるお銀が入る風呂も違う。あの時代の風呂は蒸し風呂であり、湯船はない。まだ湯を沸かしてつかるという習慣はないのである。だから当時の銭湯は大きなミストサウナだったわけだ。ちなみに混浴だったこともあったのか、スッポンポンではなく、男はふんどし、女は腰巻をつけていた。混浴ながらトップレスだ。

 

小梅太夫

 小梅太夫さんは「太夫」である。太夫といえば最高級の芸妓である。ネタとしての「チックショー‼️」はまぁ許す(笑)   しかしあのかぶり物のヅラはいけない。多分毛髪ではなくて帽子みたいにスポッとかぶる簡易的なタイプだろうと思うが、モデルとした髪型は「結綿」か「桃割れ」かなぁと思う。きちんと見てみないとわからんが。まぁいずれにしても若い未婚の女性がする髪型だ。冒頭にも述べたが彼は「太夫」である。時代によって大きく変わる部分もあるが、着る物、身につける物、化粧、そしてこの髪型と、「太夫」なのであれば全く話にならない。小梅太夫さん、時代によって全く売れてなかった時はともかく、小金も入ったんだから、せめて着物とヅラは「太夫」のものにしてくれ〜!

 

髭男爵

 「ルネッサーンス!」と言いながらワイングラスを掲げる髭男爵さん。あのお2人の着ているものをはじめとするビジュアルは、全てがワヤである。以下、いかにワヤなのかをネチネチと挙げてみる。

 まず、身につけた衣装が全くルネッサンスではない。ルネッサンスと呼ばれる時代は、およそ14世紀〜16世紀だが、髭の山田ルイ53世さんの着ているものは19世紀末頃から20世紀初頭頃の紳士の格好だ。シルクハットにアスコットタイを気取るスタイルはルネッサンスの時代には残念ながらまだない。

 もう一人の、樋口さんが着ているコートも、時代はロココマリー・アントワネットの時代である18世紀の貴族が身につけていた普段着の、ジュスト・コルを模して作られたものであるように見える。よってルネッサンスよりもずっと後の時代のものだ。一見サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのレコードジャケットを思い浮かべたのだが、ビートルズが身につけていたあのヨーロッパの海軍軍服風衣装も、元々はジュスト・コルが原型なのかもしれない。

 

 まだまだ言いたいことはある。しかし今日はこの位にしといたるわ(池乃めだかさん風に)。

スナック菓子ランキング

かっぱえびせん
 「やめられない止まらない」。何という恐ろしいコピーであろう。やめられないのである。止まらないのである。まさにこれはドラッグではないか。何かの理由があったのか、「合法ドラッグ」という名称は今は使わなくなったが、かっぱえびせんは中毒性の高い合法ながらも危険なスナック菓子であろう。あの形、あの硬さと口どけ。完璧である。かっぱえびせんの前には地球上のあらゆるスナック菓子はひれ伏す。今や期間限定やご当地モノのようなバリエーションもたくさんあるが、それらの全ては邪道で色物である。


《カール》
 私が子供の頃、センセーショナルな登場をしたのがカールだ。発売当初は「カレーがけ」と「チーズがけ」の2種類だったと記憶しているが、うす味という途中加入者が、これまで先輩たちが築いた地盤に乗っかって、一番人気になってしまった。ちょうどドリフでいうところの今は亡き志村けんさんである。となると、ほぼ目にすることもなくなったカレーがけは、これまた今は亡き荒井注さんということなのか(笑)   「なんだバカ野郎」か、懐かしい(笑)
 ところでカールそのものの生産も大幅に規模を縮小したらしいのだけどホントかな? なんでも東日本ではもうほぼ食えないらしい。盛者必衰、寂しい限りである。


《柿の種》
 子供の頃は大人のお菓子で、辛いと思っていた柿の種。亀田製菓の小袋が6個入ったやつは定番中の定番である。比率論争もあった。ピーナッツとの重量比が6:4から7:3になった、マツコさんがCMに出てたアレだ。私はナッツが好きなのでピーナッツだけの製品も買うくらいだから、柿ピーもピーナッツが多けりゃ多いほどいいんだけどなぁ。柿の種は誰もが好きな印象だけど、あの極端なシケやすさはなんとかならないものだろうか。ちょっと置いておいたらペタペタになるんだもんなぁ。


《ポテトチップ》
 嫌いではないんだけど、さほど好んでは食べないのがポテチだ。世界最大のハンバーガーチェーンのフライドポテトもあんまり、である。あの商品のコピーに、「ああ、止まらない・・・」というのがあったけど、私はピタッと止まる(笑)   なんでだろう、考えればおでんのタネとしてもジャガイモは今一つだしなぁ。じゃがバターとかジャーマンポテトなんかは好きでよく食べるんだけど。しかしあのポテトチップというもの、家で作ろうとしても◯ルビーのヤツみたいにはならんね。やっぱり餅は餅屋、ポテトチップはポテトチップ屋である。


番外編《ホワイトロリータ
 スナック菓子とは呼べないだろうが、大昔からこれ、大好きだった。だった、と過去形なのは、今はほとんど食べないからだ。それは私にとってはかっぱえびせん以上に「やめられない、止まらない」からである。このクッキー、どう見ても太るじゃない(笑)   最近たくましくなりつつある自分の腹部を見ると、大量摂取はダメだろうと思う(笑)
 しかしコイツ、名前が秀逸である。なんせ「ホワイト」の「ロリータ」なのである。何という背徳感!何というサブカル感!最強ではないか。

隠れてしまった当代天才列伝

 数十年に一人、唯一無二の存在であることは間違いないのだが、同じ時代の同じステージに、数百年に一人のさらなる奇跡のような天才がいたことによって、その陰に隠れてしまったなぁと思う人を挙げてみます。当たり前ですが独断です。

 

 

尾崎亜美ー (天才➡︎ユーミン)

 この人が作り出すメロディラインはホント新しかった。化粧品メーカーのCMに起用されたこともあり、スマッシュヒットを立て続けに放った彼女は当時のJポップ界を駆け抜けた感がある。私の中では『ポップミュージックの天才』と称するに相応しい人である。名曲『オリビアを聞きながら』も彼女の作品の一つだが、もう一つ彼女の特筆すべき点はその声量であり歌唱力だ。少しかすれた声と相まって正に第一級だ。しかし同じ時代には、かのユーミンがいた! 尾崎亜美さんは一番になることなど狙っていなかったであろうが、ユーミンの牙城は堅牢であり、やはり一番にはなれなかった。

 「春の予感」や「マイ・ピュア・レディ」もよかったけど、私は彼女の声の伸びがよくわかる「蒼夜曲(セレナーデ)」が好きだった。知らない人にはオリジナルのトラックを聴いてほしいなぁと思う。

 

ー角田夏実ー (天才➡︎阿部詩)

 今の女子柔道界にあって、絞め技・関節技に関して角田夏実選手の右に出る者はいないと思う。女子中量級においては、対戦する相手にとって最も嫌なタイプなのではなかろうか。巴投げという一見捨身の技から連続する巧みな絞め技や関節技は、相手を恐怖のどん底に陥れる。同じ52kg級で戦う、いわばアイドルの阿部詩選手との対戦成績では角田選手の方が勝っているのだが、阿部選手より身長が高く体格的には一回り大きく見える(失礼かな?)にも関わらず、自分がより軽い48kg級に転向したのは、メディアの露出度も高く、兄とともに何かと話題になる『阿部詩』というアイドルに道を譲るためだと私は勝手に思っている。

 

伊藤美誠平野美宇早田ひなー (天才➡︎同じくこの3人)

 ああ、もったいない。福原愛選手、また石川佳純選手の後の時代、女子卓球におけるこれら20歳の三つ巴はそれぞれがNO.1のスターになれる逸材だけに、お互いがこの後星のつぶしあいをすることになるだろう。10年、いや5年でいい。この3人が別の時代に生まれていたならば・・・。今は実績で早田選手は1ランク落ちるが、彼女はメンタルの部分を克服すれば、私は絶対今の何倍も強くなるはずだと思っている。

 ・・・しかし伊藤美誠選手は心身ともに強い。近いうちにランキングでも世界一になるだろう。

 

円谷幸吉ー   (天才➡︎アベベ・ビキラ)

 他人からどう見られているかを気にし過ぎたといえばそれまでだが、そんな日本人特有の弱さを持ったアスリートを誰が責められようか。自衛隊に所属し、東京オリンピックで銅メダルを獲得した後の彼の運命は無惨という表現がピッタリなのではないだろうか? 「次(メキシコ五輪)は優勝を目指します」という東京五輪後の彼の言葉は、周りに言わされたのではあるまいか? 持病のヘルニアは手術しても、腰の調子は一向に回復の兆しが見えないのに、世間のプレッシャーだけがどんどん大きくなっていく。結局彼はそのはざまで頸動脈を剃刀で切る方法での自死を選んだ。

 律儀な円谷さんが遺した、家族や親類に対する細やかな心遣いにあふれた遺書は、今でも涙なしでは読めない。彼はオリンピックを2連勝した天才アベベに、というより、たとえ2位でも「敗れた」と表現されるような勝手なマスコミや、それに乗った民衆が無責任にかけてくる重圧の犠牲になったのである。

 

羽生善治ー   (天才➡︎村山聡)

実際棋士としての全盛期の羽生善治さんは強すぎる程に強かった。よく複数のタイトルを手に入れると「◯冠」といったりするが、彼は7冠までいったんじゃなかったのかな? だから羽生さんは「天才の影に隠れて埋もれた」というより彼こそ紛うことなき天才なのだが、その最強の羽生善治と、病身にありながら互角の対戦成績を残した棋士がいた。漫画・アニメ・実写映画の「3月のライオン」においては重要な登場人物の一人として描かれた、二海堂晴信のモデルであるといわれる村山聡九段である。

山九段のドキュメンタリーともいえる「聖の青春」という映画があった。高熱のため、座る姿勢を保つことさえ辛く、脂汗を流しながら将棋を指す村山聖九段(松山ケンイチさん)を前に、対戦する羽生善治(東出昌大さん)が涙を流しているシーンには泣けた。真っ直ぐに真っ直ぐに生きる聖の姿に私自身が情けなくなって。

奇跡の声、「可愛い」「シブい」

 色んな歌い手はいるが、今日は「カワイィ〜!」っていうのと「シッブー!」っていうのを取り上げてみます。はい。独断です。

 


ー可愛いー


吉澤嘉代子さん》
 この方、私大好きです。もっとメジャーになってもいいのに。何より声がいい。マジな歌のエグる感じも素晴らしいし、コミカルな歌のクスッとくるところは秀逸だ。彼女の「恥ずかしい」という歌もそんな『クスッと系』の逸品だけど、考え方が可愛いことに加え、曲の最後の部分である『恥ずかしー‼️アー‼️』というフレーズは何度聴いても可愛くてよい。


SHISHAMO
 ボーカルの宮崎朝子さんの声はあり得ないほど素敵。実は私、ひょんな機会があって彼女とお話ししたことがある。その時無理を言って、いただいたメンバー全員のサイン入りのヨットパーカーは今も私の宝物である。さてテーマであるが、「明日も」という曲のサビ前にある『オオオ』の部分は、それだけでこの名曲をケナゲで可愛くしている。ただ、面白いのはこの方、話す時には伊藤沙莉さんみたいな野太い声で、そのギャップがまたいいんだな。


森田童子
 ちと古いですが。しかしこの人の声は何と表現したらいいのだろう。「僕たちの失敗」は今聴いても十分退廃的な気持ちになれる(笑)  「高校教師」は教育者としてホント、あかんテーマだったけど、あの曲にはぴったりだった。桜井幸子さんの美しさと真田広之さんのだらしなさ・・・。森田童子さんの病的に消え入りそうな声と相まって、ため息がよく似合う。

 


森高千里
 ミニスカートの「17歳」ばかりが取り上げられるけど、私は「雨」か「渡瀬橋」を推したい。彼女の声は大変失礼ながら南野陽子さんと菊池桃子さんに通じるものを感じていて、私の中では『幼声三姉妹』なのだが、ファンの人が聞けば怒られるだろうか。「渡瀬橋」は情景を勝手に妄想してるから、歌詞をヒントに短い小説を書きたいとも思っているほどなのです。

 


ーシブいー


柳ジョージ
 亡くなってしまいましたね。ホント悲しい。名曲「青い瞳のステラ」が名曲たる所以は、ジョージさんの声と物語の切なさによる。戦後、国の仕事で夫と一緒に日本に来たが、長い年月が経って夫は大好きになった日本で帰らぬ人となった。妻である自分は故郷のテネシーに帰ろうかとも思ったが、大好きな夫が眠るここ日本を離れることなどできない。ふと知り合った日本の少年も大きくなった。その少年の目線で書かれた曲であると聞いている。ジョージさん、あのしゃがれ声もう一聴かせてくれよ、芝生の下で眠っていずに。

 


トム・ウェイツ
 代表曲の一つである「Tom Trauber's  Blues」はドラマ『不毛地帯』の主題歌である。特徴ある歌声を初めて知ったのは、はるか高校の時だったか。友達から「すごい声のヤツがいる」と紹介されたのが彼を知ったきっかけである。ほとんどギャグかと思うほどのしわがれた声は、聴いているうちに体に染み込んでいって忘れられなくなる。しばらく聴かないと、無性にあの声に会いたくなる。そう、私にとって年に何回かは体が渇望してしまうチキンラーメンのように。

 


ジョアン・ジルベルト
 「イパネマの娘」であまりにも有名。当時ジョアンと夫婦だったアストラッド・ジルベルトが歌った英語バージョンが大ヒットした歌。思うにこの夫婦だけに限らず、ボサノヴァ歌手は皆ささやく。ささやいてナンボだ。ズバリ言えば下手くそでも成り立つのかもしれない。しかしジョアンの歌声は唯一無二であるが、長くは聴いていられない。なぜなら聴いた人の80%は10分以内に眠りに落ちるからだ。
 しかしこのイパネマという所、世界的に有名なのかもしれないが人口的には日本の「市」にもならない規模だ。地方の「ある一つの農業の町」でしかないのかな。それでもあくまでも大阪の地方の町に例えてみると、「枚方の娘」?「藤井寺の娘」?「四条畷の娘」? ・・・これではきっと世界的なヒットにはならないな。