孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

回転寿司症候群

 努力の価値がわからない若者たちは想像以上に多いことに唖然とする。どうして頑張んなきゃダメなの?という視点である。努力したら何があるのか、それには価値があるのか、得なのか。若い人ほど明確なベネフィットがなければ行動できないように感じる。
 あくまで私見ながら、現代の若者には精神的な部分での特徴的な弱点が2つあると思っている。1つは『自分の考えを否定された時に自分自身を否定されたと思ってしまう』こと、もう1つは『努力したことが報われない時に理不尽だと感じてしまう』ことである。しかし後者について、若者たちがなぜそんな風にしか考えられなくなるのかが最近わかったような気がしたので、論理が少々飛躍しているのだがここで紹介してみたい。

 夕食の用意をするのが面倒クサいなぁと思い、妻の調子も良さそうだったので、たまには外食でもするかと思って近くの回転寿司店を訪れた私たち夫婦。そして驚いた。満席で待合いにも人が溢れてるではないか! なんなんだ?月末でもないのに! しかしその辺りを走り回るガキどもの格好で事態はすぐ理解できた。その日は近くの小学校の運動会だったのだ。テーブルや待合では似たような声が聞こえてくる。『◯◯クンは今日頑張ったもんねー』というガキに対する大人たちの言葉だ。当然大人に褒めそやされたガキの方はまんざらでもない。
 しかし。その◯◯クンは本当にその日頑張ったのだろうか? 少なくとも特別な報酬をもらえるほど頑張ったのだろうか? 答えは多くの場合『否』であると思う。そう、◯◯クンは全員がしなきゃいけない日常を周囲と一緒にこなしただけだ。個人的に地道な努力をしたわけではないのである。なのに彼には称賛の言葉がシャワーのように浴びせられ、あまつさえ普段一緒に生活していないじいちゃんばあちゃんまでが顔を揃えた宴席が設けられるのだ。・・・何かあるたびにこんなことが◯◯クンに対して繰り返され、彼の人間性の基本になる部分を形成していくのである。

 私はある仮説を立てた。それは《人は努力していないことに報酬を与えられ続けると、努力することに価値を感じなくなる》というものだ。なんせ頑張らなくても褒められたり与えられたりするんだもの、アホらしくてコツコツ頑張ることなどできるものか。
 小さい時からさして頑張ってもいないのに『頑張ったねー』を浴びせられ続けるガキどもは、『努力しなくても報酬を与えられる』と勘違いし、同時に自分の立っている位置の認識がイヤでも高くなる。そしてこの勘違いは、逆に『自分が努力したことが報われない時』には我が身の理不尽を嘆き、周囲に対する不満を持つことになるのである。

 これらを解決するには、努力に正しく見合った報酬を与えるしかないが、幼児期から『非努力性賞賛状態』に晒され続けた人格を後天的に使える人材に育てるのは至難の業だ。可哀想なことにそんな風に子供の人格を歪めてしまうのは、誰あろうその子の親をはじめとする大人たちなのである。私はこの誤った指導姿勢の親によって歪められてしまった可哀想なガキの特徴を病気として捉え、『回転寿司症候群』と名付けた次第である。