孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

均一ショップ

 ◯イソーやセ◯アなど、略して百均と呼ばれる100円均一の店の歴史は古い。なんでも大手百貨店が大正時代に10銭ショップを始めたのが今の業態でのスタートらしい。個人的に100均は大好きで、「100円均一コーナー」ではなく、店内全ての商品がが100円の大型店舗が出現してからは(今でもそんなに変わらないが)、半日はそこで過ごせる。 いつの頃だったか、100円均一の店であるにもかかわらず、100円以外の値付けをしている商品を見つけて驚いた。しかしその後それらは増えていき、200円、300円、500円と、店舗内での取り扱いを増やしてきている。ならばいっそ、「100円以外の均一」を展開させてみてはどうか?と思ったのが今回のテーマである。

 

《千均》
千円となると色々なモノが陳列棚に並ぶ。肌感覚で2,3千円位はするようなものでないとお得感がないから、衣類を充実させてはどうだろう。靴でもいい。ジャケットやカバンなんかでそこそこ感じの良いものが千円ならかなりお得感がある。食器もいいかなぁ。安っぽくない皿や小鉢用の食器がセット売りされていたら買いたいなぁ。


《万均》
1万円となるとひょいひょい買えない。そうなるとここは目玉商品として、家電の出番だろうか。多機能の電子レンジや高級な炊飯器、コードレスの掃除機もいいけどあれは既に1万円であったりするから、それにハンガーにかけたまま使えるアイロンあたりを付けてもらおう。


《10万均》
高級ブランドにご登場いただく。きっと型落ちのスーツやバッグなんかはメーカー側もその処理に苦慮してるんじゃないのかな?思い切って、ハナから10万均一用にお値打ちアイテムを展開するっていうのも一案だと思うのだけれど。


《100万均》
世界一周旅行か。ここにお金を払える人は、きっと金が余っている(笑)  だから「贅沢な商品をお得に」をコンセプトに、時間などの制限を度外視した、貧乏人からすればすごい浪費に見えるような商品がいい。金というものは、持っている人がジャンジャン使わないと経済は回らんのです。


《1000万均》
不動産、特に豪華な自宅や別荘など。ここまで来ると、金というものを「どう使おうか?遊ばせておくのもなぁ・・・」と考える程の金持ちである。利殖ももういい。儲け話も聞き飽きた。かといって寄付はなんだか勿体ない。そんな人には世界に誇る日本の水の水源地を是非日本人として買ってもらえれば、、、ねぇ。


《億均》
毎年これを買う人がニュースになったりする。収益型賃貸マンション、命名権(大阪でも「市」の名前が売りに出されたけど買い手がつかなかった)、宇宙旅行、鉄道会社の経営権など。変わったところではプロモーション付きでアイドルとしてデビューできる権利はどうだろう。きっとプロダクションが本気で逸材を売り出す時にはこんな金額では済まないのかもしれないけど、確実にヒットチャートには入れることはできるんじゃないかなぁ。知らんけど。

 

来迎・お迎え

 浄土宗や浄土真宗などの阿弥陀如来を奉る宗派は、日蓮宗真言宗とは違い、亡くなる時に孫悟空のように、雲に乗った仏様がいらっしゃる。仏様側から直々に方からお迎えが来る訳なので、巷で言われるところの死後の世界というものが無い。よって中陰と呼ばれる半人半仏のような半端な49日間の期間も無い。
 他宗派であれば生前の所業に対する裁判を、毎週1回、合計7週7回耐えなければならない。その間浄玻璃の鏡で悪事は全て暴かれ、嘘をつこうものなら舌をペンチみたいな道具で抜かれてしまうのだ。やっと7回目の裁判(ちなみに有名な閻魔大王は5週目の裁判官だ)を経て解放されたかと思う間も無く、次に生きる世界に転生することになる訳だ。
 そう考えるとそりゃみんな阿弥陀仏を拝むわなぁ。なんせ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで仏様が連れに来てくれて、極楽まで一直線なんだから。平安時代、全国民が地獄に落ちる我が身を案じ(殺生をすれば地獄へ落ちるのだから、害虫や害獣を殺してきた自分は・・・)恐怖におののいた時代、「阿弥陀信仰」が一世を風靡したのも無理はないし、世の仏像の中でも阿弥陀如来が多いのはそのせいだ。
 平安時代に始まったこの阿弥陀信仰だが、調べていくとなかなか面白い。亡くなる人の信心の度合いに応じてなんと9段階にお迎えにおけるゴージャス度が変わるのである。具体的にはお迎えに来てくれるメンバーや乗り物まで違う。一番良い(上品上生)レベルは仏様(阿弥陀如来)を中心に、菩薩や飛天がそれはそれは賑やかに、それぞれ楽器を奏でながら雲に乗っての大楽団でのお迎えだし、一番下(下品下生)では仏どころか誰ものっていない乗り物だけが配車されるのだ。しかしそれでも極楽に送迎してくれるのだが。
 面白いのはお迎えの管弦楽団の方々(雲中供養菩薩)が皆さんにこやかで、それはそれは楽しそうに楽器を演奏しておられることだ。宇治は平等院の像を見ていると、俺もこれがいいなぁ!と思えてくる。これから極楽へと向かうのだから、亡くなった人の気分は否が応でも高揚しているところに加えて、ブンチャカブンチャカと賑やかに「阿弥陀如来とお迎えオールスターズ」がやって来る。例えようもないが、某テーマパークのパレードが自分を連れて行ってくれるためだけに来てくれる感じなのかなぁ?きっと違うな(笑)
 

良い先生

 「この時〇〇さんはさんは何を感じたでしょう」とか「これを見て◯◯君はなぜ泣きそうになったのでしょう」などという設問があった時「わからない」という答えを書いて✖️になった、、、みたいなウソかマコトか知らない話が、昔から消えずに生き続けている。誰あろう私も解答欄にはそう書くべきだと思っている。解る訳がないではないか。
 私の下の子供が小学校4,5年の頃、この問題に遭遇した。国語の授業時間にこの類のことを担当教員から問われ、やはり「わかりません」と答えて、時間中ずっと立たされていたという話を後で知った。私の息子の態度や答え方もあったのだろうが、その先生、息子の答えにかなりヒートアップしていたらしいことが、同じクラスにいる子供たちもそれぞれ親に言うから、回り回って私の妻の耳にも入ることになったわけだ。

 私は子供に「どんな感じやってん?」と聞いた。息子いわく、「どう考えてもわからん」って答えたらな、◆◆先生な、「『まじめにしなさい!立っとき!』って言うてん」「へぇ、ほんで?」「授業の間な、何回も『もうわかったか?』って聞くねんけどな、そのたんびに、『やっぱりわかりません』て言わなしゃーないやろ?」。「ほぉ、それから?」「先生な、『素直に答えなあかん』って言うねん。でも俺な、わからんからわからんて言っただけやねん』」。私は言った。「そらそうやな、お前は正しい」と。
 この先生、それからと言うもの、接する機会がある毎に息子を馬鹿にしたり無視したりした。自分になびかない可愛くない子供だと目の敵にしていたのだが、大人気ないし、教師としてはあってはならないことだ。神戸の須磨で起きた教師による同僚へのいじめ問題はまだ記憶に新しいが、全く関係のない案件ながら、私はこの教師の人としての出来に、あのアホ教師と相通ずるものを感じた。教師という人種の多くは教師しかしたことがない人が多い。自分の職場が世の中の全てで、それが社会の常識であるから、一般社会の感覚とは大きくずれていることも少なくない。教室は密室であるとはよく言われることだが、当の教員自身の中にはそれが何のことかわかっていない人も少なくない。

 「良い先生」とはよく聞くフレーズながら、その定義をわかっていない教師、またその実現の方法を間違ってしまっている教師は多いと思う。仕事で高校に訪問もするが、我々専門学校とは「良い先生」の認識が違う教師を見ると驚き、またため息が出る。以前訪問した、とある高校の職員室にて見た光景を紹介したい。応対してくれた進路指導部長が、ある先生を指し示して「あの先生は人気が有るんですよ」と教えてくれた。見ると確かにその若い男性教員、2,3人の女子生徒にまとわりつかれている。するとその中の一人に対しその教師、「△△、お前授業で寝てること多いやろ!?」と笑いながら言った。それ位なら日常的に交わされる会話だとは思うが、その△△の部分には女子生徒の下の名前が入っていたのである。しかも生徒たちからも自分のことを「■■ちゃん」とあだ名で呼ばれているではないか! この先生は一体生徒に普段何を教えようとしているのか?社会における競争力を身につけて卒業させるのが仕事の我々のような学校にいる人間から見れば、ケンシロウではないが、この教員、このまま変わらなければ「もう死んでいる」。
 しかし。この状況を破滅的と思わない一群もきっと多いだろう(我が校に入学してくる生徒たちが発信する、母校のことや先生のことを聞けばそれはわかる)。「仲が良くって、慕われてるから良いんじゃないの?何がダメなの?」という考えによって、生徒たちが社会競争力を身につける機会はどんどん減っていく。しかし小学校程度ならそれもいいのかもしれないが、高校生にもなって、最低限社会に必要な生き方考え方も教えないで、生徒と友達のように過ごしている教員のことを「良い先生」と呼べる訳がないと私は思うのだが違うだろうか?

ノーベル賞

 今年こそはいよいよ取るぞ!と毎年その時期には日本中の支援者(?)の期待が高まる作家がいる。その著者の作品を2,3作読んでみたが、残念ながら私にはその良さがわからなかった。まぁわかる人にはわかるのだろうしその数は多いのだろうが、預かり知らぬことだ。
 しかしこのノーベル賞とやら、投票で決まるのか、功績を数値化してそのポイントによって決まるのか、はたまた別の方法で決まるのかは私の知るところではないが、いずれにしても「数」の多寡によって選出されるのが正しい選出方法だと思う。生理学・医学賞ならばどれほど多くの人(命)を救えたか、文学賞ならばどれほど多くの人の心に感動を与え光を灯したか、他の部門も同様で、世の中の人々に対しプラスに影響させたかという度合いは、「数」が一番透明で理解しやすい基準だと思う。その意味で、いまさら感はあるものの、私はノーベル平和賞に以下の偉人たちを推挙したい。


手塚治虫氏》
 この方の受賞に口を挟む人がいるのであれば、漫画やアニメが人々の心に及ぼす力を理解していない。戦争に疲れ果てた日本において、子供たちの目を輝かせ、夢を与え続けた功績は半端ではない。まさしくノーベル平和賞を受賞するにふさわしいではないか。


ウォルト・ディズニー氏》
 これはもう、私が何かの評価を彼に与えられるはずもない。この人のお陰で一体いかほどの子どもたちが救われただろう。彼がいることで生まれた子どもの笑顔は全地球規模である。子どもたちの笑顔を数値化できるのであれば、きっと他の追随を許さないだろう。


安藤百福氏》
 朝ドラ「まんぷく」は毎週録画して見ていた。インスタントラーメンを開発したことというより、彼の貧しい人の栄養状態を向上させたい、また日常的に飢えがあった時代にお腹が空いた人の空腹を満たしたいという思いに胸が熱くなる。あのドラマ、詳しくは言えないけど、実はウチの学校とも関わりがあってちょっと自慢なんだよねー。


パーシー・スペンサー
 電子レンジの原理を私は知らない。なんで冷たいものが温かくなるんだろう?しかしこの機械なしに我々の生活は成り立つだろうか?俗に「チンする」というが、我が家では軽く温めることを「軽チン」、ほんの少しだけの時には「ちょいチン」と表現している。調べるとパーシー・スペンサーという人が発明したらしいのだが、この人ほど世界の人々の役に立ってる人も珍しいんじゃないのかな?

 

『型』

 マニュアル人間という言葉がある。「今の若い社員はマニュアル人間だからダメだね」のような上司たちからの嘆きも時折聞こえてくる。

 我が学園への入社希望者に対しては、書類選考の後一次面接と実技のスキルのチェックがある。私はそれを通過した応募者のニ次面接の面接官でもある。当たり前だが応募者は入社を希望している。教育業界は、常に慢性的な人手不足だ。いや、言葉を選ばず言えば、「人」はいるが「いい人」が絶対的に足りないのである。以下、私の心に残っている応募者の話を2例紹介する。

 

 一人目は、見た目にもパリッとしたスーツを身につけ、韓国の男性アイドル風だった人だ。面接に臨んだ私が驚いたのは、いわゆる「よくある質問」に対するその人の答え方についてである。その応募者は私からの「我が校に応募しようとした理由を教えてください」という誰もが予想できる質問に対し、暗記してきた言葉を披露しようとした。若い人にはちょくちょくあることだ。詰まり気味に右上、左上に目線を泳がせて頑張っていたが、とうとう話し始めて30秒ほど経った頃、完全に詰まってしまった。彼にとっては緊急事態だ。しばらくそのまま場は膠着してしまったのだが、私は可哀想に思い、平静を装って「落ち着いて自分の言葉で良いですからね」と彼を慰め、次の言葉を待った。しかしそこでその応募者は「もう一度はじめから良いですか?」と言ったのである。彼にとっては「覚えてきた一言一句を発表すること」こそあるべき姿であり採用への道なのである。これには苦笑するしかなかった思い出だ。結局彼は入社できなかったが。

 ある『型』をなぞって人の心を打てるのなら、こんな簡単なことはない。人心掌握などわけないことになってしまう。出る杭にならないように生きてきた世代の多くの若者にとって、『型』の中には正解はないのだ、と知れば途方に暮れることになるのかもしれない。

 

 2人目は文学少女のような風貌の女性である。何もかもが真面目かつストイックな回答だった彼女、私からの「貴女の長所を教えてください」というこれまたよくある質問に対して、コホンと小さな咳をして、「最近読んだ本の中にこんな一節があります。・・・主人公の◯◯は、限定された自由の中にあっても将来への希望の光を失わず・・・虐げられた運命に・・・」と、詳細は忘れてしまったが、その本の主人公を自分の生き方に重ね、語り始めるではないか。笑っちゃいけないんだろうが、私は心の中では失礼ながら大笑いした。考えると泣いちゃいけない場面で涙を堪えるより、笑っちゃいけない場面で笑いを堪える方が何倍も辛い。しかしこの応募者は私に何を言いたかったのだろうか。そしてその時の回答は、そんなご大層な手法をとったにもかかわらず内容的には大したものではなかった。そんなものである。

 自分の世界を強く持つ人は、自分の価値をわからない人の方を異端とみなすことがある。もちろん自分の世界を持つことそのものがいけないということではないが、あまりに強い「◯◯ワールド」を持つ人は、経験上対人コミュニケーション能力に乏しいことが少なくない。スペシャリストというものは偏っているのが普通なのかもしれないが、まもなく社会に送り出す生徒の指導を行う人が「変わり者」では色々な場面で困る(笑)  キラリと光る個性的な魅力を発揮しながら、周囲と上手くやっていけるのはごく一部なのだが、正直そんなタイプを採用したいのだけれど。

座席、ここが変だよ譲り譲られ

 公共の交通機関にはお年寄りや体の不自由な方への優先座席が設けられている。本来そんなものはいらないのかもしれないが、実際あの席を必要としている人の中でも、一見そうだとはわからない場合も少なくない。誰あろう私の妻もその一人だが、ヘルプマークというものを知った当初から何度か嫌な顔もされ、気を遣い遣わせることから、今では極力電車には乗らないようにしている。まぁ健常者にはわかってもらいにくいことかもしれない。

 さて今回は私の思う、座席についての譲り譲られる人間模様を紹介したい。


《寝たフリをする冷血人間》
 寝たふり。それは嘘。それは偽り。そしてそれは「自分は前に立つ人に気づかなかったんですよー」という、周囲に対する言い訳。セコいヤツ、ずるいヤツ、汚いヤツ。席を立つのは相手のためだけど、寝たふりするのは自分のためだ。相手を気遣う気持ちよりも、自分が恥ずかしいと思う気持ちの方が上回るという冷酷な人だ。


《子供に席を譲る異様さ》

 子供とお母さんが電車に乗り込んでくると、席を譲ろうとする(少なくとも『譲るのが普通』だと思っている)女性は少なくない。女性と限定したのは、男性でそんな風に思う人、そうする人は滅多に見かけないからだ。なぜなら私の知る限りほとんどの男性はそうは思わないからである。私もあれはおかしいと思う。子供がまだ一歳前後ならわからなくもないが、走り回っているガキなのである。疲れているのは親の方だ。だから席を親に譲るのなら私は大賛成だ。
 昔、私が乗っている電車におばあさんと孫(とおぼしき男の子)が乗り込んできた。私は座っていたのだが、前に立ったおばあさんにどうぞ、と言って席を譲ったことがある。するとこのばあちゃん、自分ではなく連れているガキを座らせたのである。私は唖然としたが、今更「イヤイヤ、ガキが座るのなら私は席なんて譲りゃしませんよ!」などと言えるわけもない。ガキに席を譲るなど、一番やりたくないことを結果としてやってしまい、その日一日気分が悪かった思い出だ。

 ウチの下の子供がまだ小さかった時のこと。私と2人で電車に乗ったことがあった。同じ車両には我々のような子供連れも数組いたのだが、ある駅に着いた時、座っている人 何人かの人が降りるために席が空いた。例によって子供を座らせる親(笑)。それを見たウチの子がこう言った。「俺も座りたい」と。すかさず私は「子供は立ってるもんや!」と周りに聞こえるように言ったもんだから、車両全体から冷ややかな視線を浴びせられたという話。私もまだまだ若かったからね。嫌味な男だったこと(笑)


《譲られなくてキレる不遜な勘違い》
 障害を持っていることを『他の人よりエラい』と思っている人がいる。しかしそう思っているのは障害者本人ではなく、その周囲の人たちであることも多い。いわゆる従軍慰安婦問題も、LGBT問題も、周囲の方がうるさい(笑)  沖縄の基地問題など、隣人というより本土から出張して来ている活動家が最もうるさいのはなぜだ? 私の知り合いの沖縄県人いわく、基地の近所では基地があることで生活が成り立っている人も多い。活動家の主張通り、直ちにアメリカ軍が本当に沖縄から撤退したら、生活が立ち行かなくなる人も多いのである。であるのに彼らは一体何をしてるのか? 誰のために彼らは戦っているのだろうか?
 次にこれまた私が経験した「障害を盾に偉そうに振る舞う」ばあさんを紹介する。先程の経験談と同じく、電車内での話である。ばあさんは夫とおばしき少々よろよろした老人を後ろに連れて電車に乗り込んできた。2人がつり革につかまり、電車が動き出してしばらくしてからだろうか、前に座るOL風の女性が席を譲ろうとした時、突然ばあさんが喚きだしたのである。「あんた、今しゃーなしに席替わろうとしたやろ?そんなんされても嬉しないねん!替わる気があるんやったらすぐ替わりぃや!」と。そして大声で文句を言いながらも結局その席には座ったのであった!ホント、迷惑な上からババァだ(笑)  上にいる訳でもエラい訳でもないのに。

変わらないもの

 割と長めに生きてるが、人間が持っている特性の中で、絶対矯正がきかないと思うものがいくつかある。その特性を持つ人は一生それを持ち続ける。涙を流し、痛い思いをしたから生まれ変わって直そうとしても、根底の部分はどうしても改善できないと思っている。そんな事柄を挙げてみる。

 

《虚言癖》
嘘つき。まさに息を吐くように嘘をつく人がいる。大体はかまってちゃん系統の「自分を特別視してほしい人」の嘘だ。こんな夢を見た、自分だけがこんな風に感じた、昔こんな友達がいた、大怪我をした、死にかけた・・・。ある意味寂しい、憐れな行為だ。こんな人の多くは「機嫌」の良し悪しが激しい気がする。自分に自信のない人ばかりだから、近づかないようにしなければ痛い目を見る場合が多い。

 

《異性に対するだらしなさ》

女好き、男好きは人間の性(さが)として、そこに倫理感がない人、手っ取り早くいえば、いつもあわよくば、、、の人。この手の人間は、常に可能性を探る姿勢で生きていて、ひとたびアンテナに反応する対象が現れようものなら虎視眈々と隙をうかがい、人としてのタブー意識が無くなるのだが、これはなにも男に限ったことではなく女だって相当なヤツが存在する。この手のヤツらが手に負えないのは、歳がいくつになっても、またやらかした過去が何度あってもやっぱりまた繰り返してしまうことだ。男の浮気の証拠を掴んで突きつけた時、その男は泣いて謝るかもしれないが、その涙は2ヶ月もすれば乾くんだから騙されちゃダメだ(笑)

 

《盗癖》

これも経験上子供の頃ならともかく、思春期を経た人間で盗み癖があるヤツはその精神の根っこのところは治らない。前項目同様、自分が起こしてしまったことによって、社会的な制裁を受けたとしても、状況ができていればまたその罪に身を染める。再犯率がとても高い犯罪である。こんな人が近くにいるのなら、とにかくその人にそんな気持ちを起こさせないようにするしかない。魔がささないように。しかし私の知る限り、ここに属する人は、悪行をしてしまった後で後悔し、一人涙を流して反省するような人も少なくない。だから病気なのかもしれない。

 

《イチビリ》

これは直らない(笑)  よく関西人は、、、などと言われるが、お調子者というのは全国各地津々浦々に渡り存在する。何もコテコテの関西人だけではない。しかし関西には独特のシバリがある。例えば急に「◯◯さんどーぞー!」と振られでもしたら、指名された人がしなければいけないのは、①面白い ②へぇ!と一同が驚く程のワザを繰り出すか のいずれかだが、通常は前者になる。しかし万一こんな状況に追い込まれたならば、経験上ただちに1秒でも早く行うほうが良い。下手くそなモノマネでも、間髪入れずにやれば傷が少ない。「いやぁ、俺はできないわー!」とかなんとかやっている内に、ハードルはドンドン上がるのである。上がり切った時にブチかましたネタがしょーもないという絵を想像してみて欲しい(笑)