孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

禁断の終業式訓話

 今年も卒業式を終えた。今年度の卒業生は早くいえばデキが悪く、統制がとれない学年であった。しかしとにもかくにも卒業生は送り出した。となると我が校では次に現1年生の年度末である3学期の終業式が執り行われる。コロナのお陰で全体を集めることがはばかられる今、学年を2つに分けた分散開催である。

 私は2年間の修業年限の中で、区切りごとに生徒に指導を行う時間をもらう。校長が出しゃばって生徒の前に立つことには賛否あるかもしれないが、各学年の年度はじめと年度末にはその時期に応じた話をする。校長の話というものは、通り一遍のどこにでもあるようなことを、原稿を読むように話される経験しか中高で聞いてこなかった生徒たちにとっては(特に1年次の年度はじめには)違和感しかなくかなり珍しらしい。しかしそんな、次の日には忘れているような話なら不要だと私は思っている。わざわざ貴重な時間を割いてもらう訳である。心に響くものでなければ全く意味はない。1年次年度末の私からのメッセージは、生き方とムダに時間を過ごすことについてだ。

 まず、3Bといわれる「彼氏にしてはいけない職業」または「結婚してはいけないししてはいけない職業」である美容師、バーテン、バンドマン の話をする。続いて私の経験談を紹介する。昔私が住むハイツの階上に、懇意にしてもらっているある一家が住んでいた。そこの娘さんが高校3年生になろうかという時期、その家の奥さんが私にこう言った。「ウチの上のお姉ちゃんね、高校で卒業後の進路決めなあかんらしいんですけどね、頭は悪いし気は利かんし、何の取り柄もないんですよ。そやから美容師でもさせよかと思ってますねん。○○さんは美容専門学校にお勤めなんですよね?ウチの子に色々教えたってくれませんか?」。私は言葉を失った。この母親は美容師という職業を、何もできないような人が最後にたどり着くような仕事だと思っている。しかも養成施設で働く私に臆面もなくそう言ったのだ。

 美容師の社会的地位はどうして高くならないのか。しかし突き詰めていくと美容師という職業の価値を下げているのは当の美容師なのであり、いい加減な美容師がいなくならない限り、世間のステレオタイプは払拭できない。ここまで話すと生徒たちのこちらに対する注目の度合いが上がってくる。すかさず私は「この世にはなぁ~んにも考えていない美容師が多すぎるんだ、無為に時間を過ごしていては君らの運命も、ネガディブな風評を作っている側の美容師たちと同じになるぞ」と。またそこにひっかけてこう問う。「何の目的もなく、達成した喜びもその逆の悔しさもなく、ヤル気もないから毎日をダラダラと過ごしていて、その結果誰も幸せにしていないようなま生き方をしている人間でも毎日生み出しているものがある。それは何だ?」と。ここはキモなので声を張る。一応生徒をあてて答えさせてみるが、大体は答えられない。このあたりで会場の一体感がより高まり、ほぼ全員が注目する。そこで満を持して「それはウンコだ」と私は真顔で言う。生徒たちは笑っていいのか悪いのかがわからず、会場を一瞬変な空気が流れるが、「自分にも周囲にもプラスにならない生き方をしていて、喜びも感動もない、ウンコを作っているだけなら、それは『ウンコ製造機』なのではないか!?」「俺はウンコ製造機のような生き方はゴメンだから目的も持っているし理想もある」「うんこ以外のものも残したいし、意味のあることもしたい」。

 大部分の生徒は笑っているが、自分の事と聞き入っている。2年間ある修業年限の内半分が終わってしまった今、残りの1年をどう過ごすかは、その後の自分の人生に少なからず影響を及ぼす。

プラスチック一考

 レジ袋が有料になってどれ位経つだろう。私は袋が有料になったからこそあのレジ袋というものの価値がわかった気がする。あの袋、日常生活においては有用性が高い。なんとなれば家のゴミ箱にかける、生ゴミを取る、旅行で洗濯物を入れたりするのにも重宝する。キャンプには不可欠だし、子供のいる家庭ではあれ無しのお出かけなど大惨事にもなりかねない、最も重要な持参物の一つであることに異論を唱える者などいないだろうと思う。そう、買い物を終えた後のあいつの実力ははかりしれないのである。私たちはあのレジ袋の汎用性の高い便利さを捨て、バカでかいマイバッグを使い回して得したような気になって使っているのではないだろうか。

 今までタダで貰っていたから気づかなかったのだが、貰おうとすれば金がいることになって世の中では総マイバッグブームが起こった。しかしよく考えてみるとマイバッグに高い代金を払うことは果たして得になるのだろうか? 保冷機能の付いたものは平気で3千円以上、ただの大きなビニールバッグだって500円はするのだ。そう考えると3円や5円で買ったとしても高くはないのではないかと思い始めている。最近では洋服屋でさえマイバッグの有無を尋ねられるが、私個人としては例えばお気に入りのシャツを買ったらその店のカッコいい袋に入れてもらって、「買った気分」で帰りたいなぁと思うのである。持参のズタ袋に入れて帰っても、なんとなく気持ちはアガらないと感じるのは私だけか?

 

 海に捨てられたビニール袋がウミガメの命を奪うとマスコミが喧伝すれば、人間 (特に日本人 )の特性でビニール袋はダメだとなり、直接の関係はないのかもしれないが今度は鼻にプラスチックのストローが刺さったウミガメの個体が見つかり、今や紙製のストローを提供するのが「環境に配慮している」カッコいいカフェということになっている。もちろんプラスチックのゴミで命を落とす野生動物もあるのかもしれないが、私はとにかく話題を作り、騒ぎにしたいマスコミの印象操作なんじゃないかな?と密かに思っている。しかもあの紙のストローは臭いが嫌だし唇にくっつく。そもそも世の中にはプラスチックのもので溢れてるではないか。ストローだけをやめたって、街で見かける容器、例えば店でお持ち帰り商品を買えば、ほぼ100%プラスチックの容器に入れてくれる。それなのにどうしてストローだけがやり玉にあがるのか。その他のプラスチックに声をあげないのはなんでだ?このあたりにマスコミに主導を取られていて、さらに追従しかせずにいざターゲットと見れば一点集中で総攻撃をかける人間の自分勝手でしかも残酷なエゴを見る。意志を持たない烏合の衆なら烏合の衆らしく何も言わずにおとなしくしておけばいいと言えば言い過ぎか。

 

 ff外から失礼します

 いつもの頃からか流行りのようにメッセージの前にこれをくっつける人が少なくない。誠に失礼無礼不遜な物言いながら、どうしてこんなことをいちいち断らねばならんのだろうと常々感じる。礼儀? ffの関係じゃなければモノが言えないのか? そもそもTwitterなどのSNSなどというものは、ネット上の公開掲示板のような物だと思っている。人としての常識・良識に照らして、差別や人権に問題がある書き込みは厳に慎むのは当然のことながら、感想、意見、主張などは自由に言えばいいではないか。「ff外から失礼します」と断らねばならない背景を改めて考えてみると、この言葉をくっ付けて何か書き込みをする人は2種類に分かれるという結論に達した。


 1.自分がそれをされたら腹が立つ
 2.なぁんにも考えておらず、みんながしてるからそうしてる


私は1の人も2の人も、それぞれにおかしいんじゃないの?と思う。


《1.自分がそれをされたら腹が立つ人》

日本人はネガティブフィードバックに弱い民族だと言われるが、他人を気にし過ぎな人が多いなぁと常々思っている。突然予想外の他人が会話に入り込んできてもそれが自分の意見に肯定的、または褒め言葉だったら、きっと失礼だとは思わずに喜ぶんじゃないのかな? 違う見方や意見があることなど当たり前のことなので、自分が否定されるのが嫌だからといって相手に「否定しないでください」とお願いするのは筋違いだし、他人に対して反対意見を言うもんじゃないという考え方も変だ。 もしそうではなくとにかく知らない人からのコメントは失礼だと思うから、ff内でしか会話が成立させたくないなら、グループラインのような便利なものもあるんだから、それでやったらいい。


《なぁんにも考えておらず、みんながしてるからそうしてる人》
仕事をしていて一番仕事の成果に期待ができないのがこのタイプだと思う。失礼ながら「烏合の衆」に類する人たちだ。主体性とか当事者意識とかといったものとは対極の住人である。しかし2-6-2の法則に当てはめてみれば、世の中の人の60%はこの「周囲追随型タイプ」なのである。この人たちは基本的に頭を使わない。いや、自分のこと以外には頭を使わないというべきか。誰あろう偉そうにウンチクをたれる私も、項目に応じてそんなタイプになってしまう。しかし多くの人はそうなのかもしれない。自分の得意とするところ、好きなこと、出来に応じて何らかの報酬が絡むものにのみ張り切る人は少なくない。ま、何をさせても当事者意識のない、存在しているだけのような人はいるけどね。

めざましTV応募作品(おはよう。)

幸せのかたち ープレゼントー

 妻の人生は子供の頃から病とともにあった。ちょっと体を動かすと息が切れ、ひどい時には倒れてしまうというような子供時代を送っていた彼女が、左の鎖骨の上に心臓ペースメーカを入れたのはわずか15歳の時である。郷里の出雲から就職のために大阪に出てきたことで妻は友人を通じ、同じ大阪で働いている私と知り合うこととなった。しかし予想通りというか、恐れていた通りというか、交際が進み将来のことを考え始めると、私の親は妻の健康を、また妻の両親は美容師という私の職業をそれぞれ問題視した。双方の親が自分の子供にはもっとふさわしい相手がいるだろうという考えを持っていたため、結婚について具体的な話になればなるほど、いちいち価値観の相違からくる不満が表出し、一時はこの話自体が紛糾、ご破算にもなりかけた。私の親は心拍数が一定のままであるため走ることもままならない妻の体のことが嫌でも気になったし、妻の親はそのようなハンデを持った我が子を、美容師という不安定この上ない職業(当時の妻の両親の価値観にあてはめると)に就いている男になど任せられないという訳だ。
 紆余曲折の後 それでも縁があったのだろう、私たちは結婚することになった。しかし覚悟していたことではあるが、結婚した後も相変わらず妻にとって病院は身近なものであり、検査、入院、夜間診療、救急病院・・・そんな普通の家庭なら特別な事態も、我が家では珍しいことではなかった。それでも結婚後十数年間は私たちなりに幸せな家庭を築けたと思う。そればかりか当初私は考えも望みもしてはいなかったが、進歩する医療技術のお陰で2人の子供にも恵まれた。

 しかし40歳を過ぎる頃だろうか、妻は自分勝手なふるまいが目立ちだし、ちょっとしたことですぐ怒るようになった。そのため彼女が周囲の人とのコミュニケーションが取りにくくなっていることに私は変だと思い始めた。外で見知らぬ人に対しひどい言葉で罵ったり、電話に出れば自分勝手な論理を振りかざし、電話口の向こうの相手と大げんかをする。そうかと思えばパート先の若者たちと朝までボーリングをし、その後は丸一日泥のように眠る。そう、知らない間に妻は劇症型の精神疾患を発症していたのである。そしてそれはまるで彼女のこれまでの病による苦労がプロローグに過ぎなかった程の猛威を振るうものだった。昼夜関係なくひとたびスイッチが入ると妻は目付きが変わり、叫ぶ、物を投げる、壊す、泣きわめく、これらがランダムに起きることで制御できなくなった。妻の心に突然悪魔が舞い降りたように破滅的な行いが繰り広げられるたびに、私は狼狽しながら妻を羽交い締めにし、子供は震えて涙を流した。妻の状況はもう人としての正常な考え方が全くできない領域にまできていた。その妻に振り回され、仕事もしながら子供たちの世話と家事全般をこなす私の心も悲鳴をあげ、何もかも投げ出したい衝動に何度もかられる程で、妻同様私も既に破綻していたのかもしれない。
 病は妻の心を蝕んでいき、あのこぼれるような笑顔の持ち主とは別人になった。少なくとも2人の子供にとって、自分たちが知っている母親は、体は弱いものの人情家で温かい性格だったはずなのに、突如前ぶれもなく豹変してわめき暴れるのだから、目の前で何が起きているのかが私以上にわからなかったことだろう。発病からの数年間はこんな日々が続いた初夏のある日、とうとう親にもらったかけがえのない命を終わらせようとした妻。職場から飛んで帰った私にできることは、力一杯妻を抱きしめることだけだった。色々な意味でもうダメだと思った私は、かかりつけの医師に紹介を仰ぎ、地域でも有数の大きな専門病院の門をくぐることになった。嫌がる妻を車に乗せ、専門病院の待合室で長い長い時間を2人は無言のまま待った。名前を呼ばれやっとの思いでたどり着いた診察室で2名の医師を前にした妻は、つじつまの合わない論理で、自分は独裁者である夫からこれ以上ない程のひどい扱いを受けて、とうとうこんな所にまで来ることになったという内容のことを涙ながらに語った。横に座る私は妻の言葉を唖然として、しかし否定もせず、じっと聞いていた。妻は即時保護入院が決まり、その日の内に準備をしてまたここに戻ってくるよう医師から何度も念を押された。もしかしたら入院が決まっても病院に戻らない人も多いのかもしれない。診察を終えた妻は駐車場に向かう道中、私の背中を両手で何度も力一杯叩いた。
 実際に入院してわかったことだが、精神科の専門病院の閉鎖病棟では、人としての尊厳を保つのに大変苦労がいる。叫んだり暴れたりしなければ拘束こそされないものの、テレビやPC、携帯電話は言うに及ばず、事故防止の観点から室内には全く何も置いてはならないため、生活必需品や消耗品さえ看護師に申請しないと手に入らない。タオル1枚 、ティッシュ一枚持つことができないのである。ナースコールが見当たらなかったのでそのことについて聞くと、常時モニターされているので必要ないという驚きの答えであった。そんな環境の中でも、特に女性にとっては最悪の屈辱であろうと想像できるのがトイレだ。部屋の中にただ便器があるだけで視界を遮る壁も無い。ペーパーも看護師に都度もらう訳で、排泄の一部始終も他人に監視されているわけだ。こうなるともはやプライバシーなど無い。妻は担当の看護師がしてくれている病棟のルールや部屋の説明を聞く間、ずっと涙が頬をつたっており、私もしばしば言葉を失った。また入院するにあたり、個人の持ち物や衣類には全てに名前を書かねばならないのだが、家で一人妻の下着にマジックで名前を書きながら、ここでも私は涙を禁じえなかった。たとえば子供用の水着に持ち主の女の子の名前を書くことは、ある意味幸せな行為だろうと思う。しかし大人の女性用の下着に、持ち主の名前をマジックで書くのは書く側にも大きなダメージがある。
 一方入院によって妻がいなくなった我が家には不自然な平穏が訪れた。表面上は子供たちに笑顔が戻り、私はゆっくり寝られる夜を久しぶりに経験した。入院前には出来なかった部屋の片づけをし、壊れたところの補修をした。最もひどいところは壁の穴で、妻が子供に物を投げつけた跡である。娘の部屋の引き戸は外れるまで妻が蹴り続けたため上部が割れていたし、窓に設置しているロールスクリーンも妻によって引きちぎられていたので分解しての修理が必要だった。私はそれらをできる限り元に戻した。しかしそんな日々はあっという間に過ぎ、ゴールデンウィーク明けに入院した妻の病室から見える窓の外の景色も初秋の景色に変わった。入院する直前に叫びながら狂ったように自分自身の手で滅茶苦茶にハサミで切った髪も少し伸び、再び妻を家に迎える日が近づいてきた。
 退院の日を心待ちにしていた妻。しかし完治を期待して病院での生活を過ごしたものの、再び我が家に帰ってきた妻は私たちの期待を裏切り、状況は改善せず、入院前と同様かそれ以上に躁期と鬱期の振り幅はかえって大きくなったようにも思える日も少なくなかった。職場から帰宅した私が真っ暗の部屋に灯りをつけると、家の中が妻の手でめちゃくちゃになっているようなこともしばしば起きたし、マンションの9階にある我が家のベランダの柵を乗り越え、飛び降りようとする妻をやっとのことで引きずり降ろした後、泣きじゃくってもがく肩を抱きしめながら、私も涙があふれて仕方がなかった夜もある。またしばしばODと呼ばれる、薬の大量服用をした。水を飲ませ、薬を吐かせようとする私に身を任せながら、朦朧とした意識の中で妻はいつも泣いた。
 夫である私は急な欠勤や遅刻・早退を発病以後幾度となく繰り返してはいたが、結局踏ん張りきれずに職場を去らざるを得なかった。家事全般に加えて妻の介護を行うことで、慢性的な疲労と睡眠不足による蓄積疲労が頂点に達していた私自身を守るためではあったが、どうしてもこの仕事は辞めたくなかったので まさに断腸の思いだった。しかし私が仕事をやめなければ、首の皮一枚で繋がっている「家族」や「家庭」というものが崩壊すると思ったのが本音である。唯一の収入源を失った我が家はたちまち窮地に立たされた。無職になった私が受け取れる失業保険金は、有難いことには違いないのだが、親子4人が生活していくには話にならないような金額だった。このまま自分たちはどうなってしまうのだろうという不安で眠れない夜を過ごしながら、私は人生における色々な希望や願望を諦めないといけなくなった運命を呪った。妻の容態は何も起きない穏やかな日と、落ち込んで底のない暗闇に至る日が繰り返す。そしてその間に無慈悲にも時折凶暴な悪魔が舞い降りる。何も変化のない日がしばらく続いたりするとやっと峠を越えたか?という淡い期待を持ったが、その後必ず鋭いが牙がその期待を打ち砕き、簡単には妻や私たちを許してはくれない。

 その日の夜から大雨になるという梅雨のただ中、妻の兄が亡くなった。朝報せを受けた妻が降らせた涙雨だったのかもしれない。妻の生家がある地域は大変古い町で、私から見ればかなり閉鎖的な異空間であり、本当に融通のきかない土地柄である。風習やしきたりに縛られ、それを破ることは許されないような同調圧力が厳然と存在しているから、美容師という職業で、しかも男のくせにそんな仕事についている私は、明治以前より代々続く本家の長男である義父からは全く受け入れられなかった。初めての訪問の折には、結婚のあいさつを兼ねて義父に注ごうとした酒徳利を一瞥し、手の甲で私の方にいらぬと押し返され、私は言葉と居場所を同時に失った。以降もしばらく義父は私とは目を合わせなかったし、何かを問いかけても生返事しか返してもらえなかった。
 肺癌により自発呼吸がままならなくなった義兄は、病院にいるのが嫌だと駄々をこねて自宅にベッドを置かせ、自分が計画した通りの形で永遠の眠りについた。取るものもとりあえず駆けつけた私たちが、義兄の家の座敷に敷かれた寝具の上で見たのは、末期癌と戦い抜いた末の、生前からは想像もつかないどこかの痩せ衰えた老人だった。長兄に続き次兄を亡くし、自分以外の実家の家族が全ていなくなった妻は、「これで一人になってしまった」と声をあげてその場に泣き崩れた。
 今振り返るとこの義兄のお陰で、私は妻の生家になんとか入れたような気がする。少なくとも彼がいなければ、私と妻との結婚はさらなる苦難の道だったに違いない。折に触れて頑固な義父母をなだめ、とりなしてくれた。義兄は高校卒業後、生家を出て単身神奈川の小売業の会社に就職、スーパーの責任者にまでなった。奥さんと子供を得た後、思い切り良く故郷に戻り居酒屋を開業した義兄。気に入らない客とは大声で喧嘩もする、ある意味人間味溢れる男だった。しかし気力では病に勝てない。医療がこれだけ進んだ現代においても、人の運命は予想できないし、誰もが人生の最終局面において、辛くて辛くてやりようのない時間が義務として与えられている。人生の最後には辿ってきた道程をゆっくり振り返る時間があるのが理想だ。せめて苦しみなく穏やかにその時を迎えることこそ尊厳というものではないだろうか。反対意見もあろうが私は個人的には日本でも安楽死を容認してほしいと思っている。
 バタバタと葬儀と初七日の法要の参列を終え、翌日仕事があった私は慌ただしく帰路についた。帰りの車の中、しばらくぐったりしていた助手席の妻が、「絶対私より先に死んだらあかんよ・・・」と前を向いたまま力なく呟いた。

 来し方を振り返った時、渦中にあっては気付けなかったことだが、私の人生において幸運だったことは、妻と結婚できたことだと心から思える。妻と出会い結婚して20年位は、なんということのない普通の夫婦であり家族だった。あえて一つ何か特別なことがあるとすれば、妻には先天的に心臓の機能に問題があったために身体障害者であったことくらいだ。その妻が四十代の中頃になって、前述の通り新たに心の病を得た。それは私の想像をはるかに超える悪夢だったのだが、当初そのことで私は妻や自分の運命を呪っていた。どうして妻にばかりこのような試練を与えるのか。私たちにこれ以上どうしろというのか。しかし精神疾患における闘病の日々には、そんな甘っちょろい感情を差し挟めるほどの余裕はなかった。いつも必死で涙と汗と寝不足の毎日であり、目隠しをされたままでの全力疾走だったからだ。
 妻に発作的な症状が出ることがほとんどなくなった今改めて思う。この世に神というものがいらっしゃるならば、私は罰を科された訳ではなかったのだと。逆にこの10年間というものは、自己中心的な私に人として大切な『幸せになってほしい人のために生きる』という価値を教えてくれたプレゼントだったのである。全能の神は私に超えられない困難を与えられなかった。私たちが直面した試練は一旦は家族や家庭を根底から破壊しそうになったが、周囲に多大な迷惑もかけながらではあるものの、なんとか奈落に転落することは避けられた。
 あなたにとってこの世で一番大切なものは何ですか? と聞かれれば、「妻です」とためらいなく答えられる。若い時のように愛でも恋でもないが、妻が少しでも多くの時間微笑んでいられるために、悲しい思いや惨めな思いをしないように、この先生きていきたい。そう考えると私は間違いなく幸運であり幸福なのだと思えるのだ。
 我が家では毎日の家事のほとんどは私がやるから、夫婦2人分の朝食も当然私が作る。運動らしい運動ができない妻の体調維持のため、フルーツを盛合せにしたワンプレートである。毎朝食事の準備ができると妻を起こしに寝室に戻る。「おはよう」。まだ眠そうな妻の手を取って体を起こし、私たちの一日が始まる。

うっせぇわ

 聞けばなんでも高校生だという女の子が歌う。うっせぇうっせぇ!と。そのシャウトは単に奇をてらったイロモノという訳ではなく、きちんと考えられた、しかし多分に屈折した世界が広がる。歌詞を聴くと、気が利く人にならないとダメだとか、いわゆる常識を持たないとダメだとかといった、既成の「いい大人になることが正しい」という考えなどバカバカしい!という価値観を叫んでいるように聞こえる。もしそうであれば彼女は正しい。なぜなら彼女は高校生である。若い、いや幼い。十代など世間に対する文句が服を着ているようなものだ。

 ここで どうして彼女は「うっせぇ」のかということを考えてみよう。十代の若者の生態を上手く言い得ているものとして、中(厨)二などという表現がある。「あいつメッチャ厨二やからメンド臭いわぁ!」などと若者同士で言ったりするが、言われた対象だけに限らず、十代は全員厨二なのだと思う。要するに総メンド臭い年代なのだ。

 厨二たちは、自分は周りと違うんだと思いたい、また思われたいんだと思う。だからみんな同じに見える世の大人たちを見て、お前らと一緒にするな!お前らみたいにはなるもんか!と叫びたいんだろう。この歌を歌う少女と同じ年代の若者たちも皆似たようなことを日常的に感じているから、自分たちの気持ちを代弁してくれているような共感を感じて大反響だ。しかし若いということは未熟であるということでもあり、何かにつけていちいち反発したい気持ちとは裏腹、その反逆は確固たる理論に裏打ちされたものではないから、強がりを叫んでみても自分に自信はない。一人になった時に我が身を振り返って自己嫌悪に陥ることも多い。十代というのはそんなものであり、誠に鬱陶しいが同時に心から可愛いとも思える。

 強い弱いは別にして、人は皆承認欲求を持っている。自分はエラい、スゴいと思われたい。キレイだ金持ちだと思われたい。頭がいい、センスがいい、器用だ、歌がうまい・・・。キリがない。しかしこの承認欲求というバケモノと、自己批判という悪魔の2つの敵と必死で闘っているのに、周りからゴチャゴチャ小言を言われたり目に見えない同調圧力がかかってしまう現実に対し、少女は今日も叫ぶのである。うん、叫ぶがいい。人生において今はそんな時期だ。

混同してしまうものを集めてみました。

USJUFJ

世の日本人は、みんなUSJUFJを瞬時に判別できているのだろうか? 残念ながら私にはムリだ。なんでそんなにわかりにくい略称にしたんだ? 大阪人はUSJのことをユニバっていうから問題は銀行の方だけだけど。UFJ銀行なのか、USJ銀行なのか。あるかどうかは知らないけど、三菱UFJ銀行USJ出張所なんてなものがもしあったらややこしいことこの上ないだろうなぁ。まぁ、だからといってなんも困らんけど(笑)

 


551と556

呉羽化学の超超超スーパーな潤滑剤である556の力は並大抵のものではない。あれほど滑りの悪かった部分も、シュッとひと吹きしたらアラ不思議な位にスルッと解決する。もしかしたら人間関係のギスギスした時にもコイツでお互いニコニコできるのではないかとひそかに思っている。この556は残念なことに551と混同してしまうのである。近鉄電車に乗るとそこはかとなく香ってくる551の豚マン。あの優しい味は人の心に潤滑油の役目も請負う。

 


エレベーターとエスカレーター

これは私は比較的大丈夫だ(笑) でも私の周りにはこの2つを混同して、どっちがどっちなのかわからなくなっている人が散見される。我が校のエレベーターには注意書きに「日本のエレベーターは落ちない」とある。そうだよなぁ、我が校の8階からもしワイヤーが切れれば地下1階までアレ〜!だもんなぁ。でも「切れない」と言い切れるところが頼もしいね。五島列島の小学校に通っていた時、修学旅行は長崎だった(近いw)。小遣いを使い切って時間を持て余す男子たちは、デパートのエスカレーターやエレベーターが珍しくて一番上まで上がり、また一番下まで下がることを繰り返したものだ。でもエレベーターガールとは目も合わせられない、素朴な田舎者だった。

 


アツはナツい

 夏は暑い。文節の先頭に来る一文字が入れ替わる間違いはままあることだ。私も学生時代塗装の会社でバイトしていた時、先輩の職人に「こら!ボサッとしとらんとペンキをこっちにかせ!」と言われたので「何色のヤツですか?」と聞いたらその先輩が怒り気味に「さっきも言うたやろ!お前の目の前のキロとシイロのんや!」と言ったのである。私は一瞬「は?」となったが雰囲気でわかってあげた。そして真顔で「シロとキイロのんですね?」と丁寧に言い直したものである。きっと私は昔から陰湿だったのである。

 


(番外編)韓国のスターグループのメンバーの顔

怒られそうだが、私には男のグループも女のグループもみんな同じ顔に見える。あんなに人形のようにキレイに作ってしまった顔をその人の顔だと言えるのだろうか? 生身の人間というより工業製品みたいだ。しかし米ビルボードで首位を何週も続けるなんて、差別意識の強いアメリカ人にもアジアの民は受け入れられるようになったのだろうか。そういえば我が校の中にも最近は韓国に行きたいどころか「韓国人になりたい」と平気で言う生徒がいて驚く。そんな生徒たちにとっては我が国との2国間の誤解と欺瞞に満ちた歴史も、彼の国の領土問題における主張も、近年の大統領たちの不幸な歴史も知らないし関係ない。だから顔を白く塗ったお揃いの人形たちに歓声をあげられるんだろうなぁ。

マスメディアとコロナ

 私はマスコミというものを基本的に信用していない。もう5年近くになるか、熊本地震の際、泣いている子供や女性を写真に収めようとしている人や、屋根が落ちそうな家の前で映像におさめようと今か今かとカメラをかまえている人が何人もいるという話を聞いた。いずれも話す内容からマスコミ関係者であるとすぐわかったという。実は学校というものにもマスコミが関わることが少なくない。在校生だけでなく、卒業生がなんらかの事故や事件に関与した場合、毎年卒業生は増えていくため、聞き取りや捜査の対象の人数は増える一方である。私が経験する限り、その調査の仕方は執拗でいやらしい。生徒を捕まえて聞き出そうとしたり下校する生徒を待ち伏せたりするなど、こちらがやめてくれるようお願いしても、口では「はいはい」と言いながら平気でズカズカ踏み込んでくる。少し前、ある事件に我が学園の卒業生が関わったということから、名の知れたメディアの記者から、姉妹校の校長が何度も電話や来校の対応を余儀なくされた。個人情報やプライバシーに関することゆえ答えられないことも多かったことから、その記者から「あなたはその卒業生について説明する義務があるんじゃないですか!?」と詰め寄られたのも事実である。

 マスコミとはいったい何をするのが仕事なのだろう? 話題性が高いと見るや、とにかく事実や真実は横に置いておいて、派手に、大袈裟に、激しく、痛々しく、可哀想に演出する。情報の切り取りや使用する写真による印象操作など日常だし、何度かそんなこと耳にし経験すると、結局彼らは大衆の味方ではないのだとわかる。意図をもって情報を操作するマスコミに引っ張られる政府や官公庁も頼りないと思うものの、今の日本は残念ながら彼らの先導によりあっちにもこっちにも動かされている。大袈裟にいえばこの世は人心をもてあそぶマスコミに牛耳られているのだと思う。

 当然のように彼らはコロナに対してもやたらに怖い・危ない・大変だといってとにかく煽り、いたずらに人心を乱そうとする。Go to travelは止めるべきだ! マスコミにそう煽られた政府は Go to travel を結局止めたが、止めたら止めたで今度は旅行社側の悲鳴を喧伝する。実際あのキャンペーンをやめたら感染者が減ると見込んでいたんだろうが、そのことによって改善したようには私には見えない。検証はしたのだろうか? そもそもの話、コロナってそんなに恐れるほどの感染症なのか? インフルエンザなどの感染症でも重症になれば入院もするし死亡する病だ。しかし隔離もしないし治療する者が宇宙服まがいの防護服など身につけない。それもそうだ。少なくとも若年層では感染者のほぼ全員が大したことにはならない。死んでいるのはほとんど老人ばかりだ。少々乱暴な言い方をすれば、私はマスコミの大騒ぎのおかげで現在のようなエボラ出血熱並の戒厳体制を順守させられているのだと不満に思っている。今は熾烈なワクチン開発にようやく終止符が打たれた段階であるが(開発が早まった点だけはマスコミの手柄といえる)、接種する段階になったらなったで予想通り副反応だ副作用だ、蕁麻疹に悪寒・発熱だと騒ぎ立てる。それによりこれまた予想通り「副反応が怖い」と思う人が少なくない。風邪薬だって頭痛薬だって、はては化粧品だって効能以外に何らかの反応が起きる可能性はゼロであるはずはないのだが、振り返ればやはりマスコミによって子宮頸がんワクチンの接種は危険なものと位置付けられた過去(重篤な副反応は100万~400万例に1件程度)を思い出す。

 自宅待機や隔離の日数もマスコミのお陰でそう決まり、いまだに下方修正できないでいるが、その影響力は巡り巡って我が校のような一専門学校にも及ぶ。国家試験の受験中である我が校の生徒はコロナの濃厚接触者になることが何より怖いというのが正直なところだ。なぜなら少なくとも陽性者との最後の接触から14日間は全く身体症状はないにもかかわらず自宅で待機しておかなければならないからだ。陽性と判定されても若年層なら症状はほぼ無いにもかかわらず、もし試験日がこの14日の間にあったら、今の決まりでは受験できない。腹が立つのは自宅待機を指示された者が、個人的に医療機関等で陰性証明をもらったとしても受験できることにはならないことである。国家試験を取り仕切っている公的機関に問い合わせても「保健所の指示に従ってください」というお役所方式の一点張りで、ダメなものはダメだという。私はなんでこんな大した病気でもないものにこんなに大騒ぎしているのだろうと思っているから、こんな生徒が事実我が校で1人発生してしまった際、怒りを通り越して放心してしまった。これは私感でしかないが、来年になった頃にはコロナ感染症など大した病気ではなくなっているのではないかと思っている。ジカ熱やデング熱のようにフェードアウトして。きっと「去年はあんなことで大騒ぎしたんだよねー」などと言いながら笑っているのではないだろうか。

 ちなみにこれだけマスコミが騒ぎ立てた今、東京オリンピックは本当にあるのだろうか? 毎日毎日〇人感染、〇人死亡!と喧伝しているならば中止か再延期にしないと辻褄は合わないんじゃないのか? ふと思ったのだが、出場する選手が濃厚接触者と判定されて自宅待機期間中だった場合、出場についてどう扱うつもりだろう? 本来なら出場はできないはずなのだが・・・。しかしきっとこれまたマスコミがその選手がこれまでどれだけの努力や困難を克服してオリンピック出場することになったかを、お得意のお涙頂戴の筋書きを作り、体調が悪くない限り陰性証明を出させるなどしておそらく出場できることにするんじゃないかなぁなんて勝手に思っている。今の規定のままだと、ある選手が来日後に陽性の判定になった場合、濃厚接触者も相当数出る可能性がある。国家の威信や多くの予算をかけ、また国民の期待を一身に背負い来日している選手たちだ。簡単には「待機」させられないだろう。オリンピックが開催された場合、そんなことになった出場選手の処遇を皮肉を込めた目で見ているところだ。