孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

切り火

 国家試験の受験真っ最中である。美容師の国家試験は美容学校卒業直前にまず実技試験があり、その約1ヶ月後に筆記試験が行われる。美容学校にとって、この資格の合格率は学校の出来そのものだと判断されてしまうから、全国の美容学校ではその学校の持てる力を全て出し切った総力戦が繰り広げられる。実技は実技なりに、筆記は筆記なりに。

 実技試験は一にも二にも清潔で、衛生的に作業を進めることが求められるから、身なりにも細心の注意をはらう。だらしない格好や髪形は減点の対象にもなるから、とにかく極端なまでに学校サイドで取り締まる(笑) ヘアメイクは地味に、身につけるものは清潔感を第一に、アクセサリー類は全て外す。その姿で巨大なカバンを2つ抱えているので、そのまま高度成長時代に集団就職で田舎から出てきた若者の隊列のようだ。

 大阪地区は試験会場が2カ所あり、それぞれ4日間の実施である。1日あたりの受験は3班体制で、その日一番の受験班は一旦学校に集合させ、朝7時半過ぎには学校を出発する。我が校では昔からその場にいる職員や既に受験を終えた生徒たちが、人垣を作って受験生を送り出す伝統がある。かけるBGMは、これも伝統だが ゆずの「栄光の架橋」を音量を上げて。送り出す者は手に手に鳴り物(鳴子やタンバリン、太鼓)や、渡したい人への応援メッセージを持ち、道行く人が何事かと不思議がるほどに それはそれは賑やかな見送りをし、これが1日3班体制ゆえに毎日3回ある訳だ。最近の若者は感受性が強く、こんなことでも泣いてしまう生徒がいる。特に合格レベルに達するまでにかなりの努力が必要だった生徒にとっては、その努力が蘇ってきて感無量となることも少なくない。しかし感傷に浸っている暇はなく、母校を背にすると次の瞬間戦いに臨む顔に戻る。 

 もちろん私も全回見送りをするのだが、私は出陣(笑)する生徒から見れば見送り隊の一番最後、玄関を出るところで待ち構える。手には火打石を持って受験生の頭上で切火を切って送り出す。魔除け、厄除け、禍除け・・・。何でもいいから生徒を守ってやってくれと天に祈って。

人事評価

 人事の評価の基準を作るのは難しい。能力評価、行動評価、成果評価の配分やその評価方法、職位や社歴を勘案して、、、。

 

 私は美容師なので、シンプルな給与体型に慣れている。今まで私が経験した中で最も単純な給与の計算方式は、《売上✖️0.3》というものだった。指名客は単独で3割が自分のもの、そこに店全体のフリーの客の合計売上の3割をスタイリストの人数で割った額を足すという単純この上ないものだ。しかしこの方法は、勤務するスタイリストの力(持っている客数や技術力)が拮抗してる場合にしか平和に運営ができない。案の定退職者が出て、新しい技術者が入社した後には上手くいかなかったことを思い出す。ここで江戸時代に薩摩藩で使われていたという(出典は定かではないらしい)人物評価の序列を紹介したい。

 

一番:何かに挑戦し、成功した者
二番:何かに挑戦し、失敗した者

三番:自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者
四番:何もしなかった者
五番:何もせず批判だけしている者

 

 なるほどなぁと思うのは、二番の「何かに挑戦し、失敗した者」だ。チャレンジするのは勇気がいる。失敗するリスクがあるから多くの人はトライしない。手を出さない。もっと低いレベルでは自分の意見さえ言わない。さらにその意見さえ持たない。私は毎年、生徒たちに授業や全体集会などで話をする機会を作るが、その中でもチャレンジするということについては、1年生に対して必ず指導を行う。

 若者はよく「自分が何になりたいのかわからない」という。その思いがグルグル頭の中を巡り、「私は何のために生きているんだろう?」になることが少なくない。多くの若者は他人からどう見えてるかが自分のあり方になっているから、失敗することを過度に恐れ、チャレンジそのものをしない。そしてそんな自分に自信も持てず、訳がわからなくなっているのかもしれない。

 他人の意見は一つの考えとして自分の中に取り入れられる人は貴重だ。さらに当事者意識と勇気を持ってそれを提案できる人、失敗を恐れず新しいことに取り組める人には滅多にお目にかからない。それこそ喉から手が出るほど欲しい人財でもある。

 

 そんなことを悶々と考えながら偉そうに教職員の評価をする年度末がやってきた。個人別になったシートに評点をつける時、私の中でいつも「お前自身はどうなんだ?」と私自身が責めてくる。

女性蔑視?

 我が国で今年行われるオリンピック開催の責任者が引責辞任した。まさしく日本だけではなく地球上のあらゆる地域からの総攻撃を受け、膝から崩れ落ちた感がある。憐れとみるか、当然の報いと見るか。しかし私は本当にこれは女性差別だったのか?と疑問を持たざるを得ない。以下は完全に私個人の意見だが、「女性が多いと会議が長引く」のは経験上事実である。多くの女性は和を尊ぶから、自分が「イヤな奴だ」と思われたり、誰かが損をしたり傷ついたり、またある人が努力してきたことがムダになってしまったりといったことは全力で避けたがる傾向にあると思う。しかしそうなると新しい斬新な意見はすんなり決まりにくくなるのである。その場にいる多くの人が妙案だと思ったとしても、「次回までの課題ということで・・・」みたいに、決着を先送りにすることも幾度となく見た。改革には出血が付きものだが、その出血がどこかにだけ偏るような議決にはまずしないか、「こう決まっても仕方ないか・・・」となるまで決断しないので時間がかかる。よって女性は優しいが故、少なくとも私が知る限りでは会議が長引くのは一部の例外を除き、必然なのである。しかしこれは女性脳がなせる業だと思う。当然男性には男性の特性があるわけで、例えば今回の件についても、「男ばかりの会議だと決まるのは早いが良く考えられてないから後で問題になったり調整が必要になることも多い」などと発言した人がいたとしても、今回の女性蔑視問題と同様「男性蔑視発言」だと問題になるだろうか? いや、きっとそれはないだろう。

 白いスーツに片手を上げ、にこやかに微笑む女性たちの集合写真などには、正直うさん臭さを感じるし、スポーツ選手や文化人、各界の有名人がこれでもかという位 後出しじゃんけんで集中砲火を浴びせることにも腹が立つ。そもそも女性と男性は違うのである。一般に男は女より力が強い。多くの女は男より複数のことを同時にできる。ジェンダーフリーというのはそれぞれの性差、特性を認めた上での自由なのだから、違いがあって当たり前だと私は思っているが、女性をことさらに優遇することこそ正しいとする考えもあって違和感しかない。例えば「女性活躍推進法」などというものが成立することこそ女性を特別視する差別法ではないのだろうか?

 これは私の感覚だが、有名人や社会的に影響力のある人が「女性は○○である」と女性の特長・特性を発言したらもうそれは女性差別になる。黒人は肌が黒いといったら差別になるのと同じだ。昔の映画で、滑走路上の飛行機の座席に黒人と白人が並んで座っている時、ふと外を見た白人が「気づかない内に外は真っ暗になった」といった意味のことを言った直後に黒人のことに気付いて「おっと失礼」といったシーンがあった。黒人の方は軽く首を振りながら仕方ないといった感じで「いいんだ」と応えたのだが、後で聞くと肌の黒さを連想させる表現で、差別とも受け取られかねないので謝罪したということだったらしい。このような感覚はもしかしたら日本人には理解できず、欧米の方が敏感、いや行き過ぎているんじゃないか?とも感じる。 日本人は背が低いと言われようが、出っ歯と言われようが、カメラを首から下げていると言われようが笑っているだけだ。

 

漢民族には一重まぶたの人が多い

●黒人は唇の厚い人が多い

赤毛の白人にはそばかすのある人が多い 

といった身体的な特徴を口にくちにするのはダメなのか、

 

アマゾン川流域には狩猟時代の生活様式の原住民が存在する

●東南アジアの各国では昆虫を食べる風習がある

●ニューヨークでは犯罪が多い

といった文化の上での特徴を口にするのはアウトなのか?

 

 我々は都合のいい時にだけこんなことを差別だ!といったり、差別ではなく逆にただの笑い話にしたりしていないだろうか? 脚に障害のある人に対し「足が遅い!」と罵る感覚とは絶対違うと思うのだが、事実を言っても差別だと断罪されるなら、何とも生きにくい世の中だと思う。

校長あいさつ

 危ない。今年はできなくなるのかな? 少なくとも保護者の参列は難しいだろう。なんの因果か私は校長であるから、卒業式のプログラムの中で「あいさつ」と称し我が校を卒業する若者にはなむけの言葉を述べることを求められる。校長になったばかりの頃はこれに対し大した思い入れもなく、破綻のないどこにでもあるような原稿を作って式典の中でそれを読むことを繰り返した。いわく「桜のつぼみが・・・」とか「大いなる海原に漕ぎ出す・・・」といった類いのヤツだ。専用の用紙に縦書きした上、「式辞」と表書きされた厚手の和紙に包んだご大層なものも過去には使ったことがある。

 私は式典なんかにおける校長あいさつなど、おまけのようなものだと思っていたから、そんなただの「形式」には全くこだわりを持たなかったのだが、ある日ある学校の校長が卒業生に対してかけた言葉を聞いてからは、大切な場面においてこれまで私がしてきた、誰ににも影響しない、意味のないスピーチはやめることにした。心に残らない言葉を発し、また聞くことは人生における時間の無駄遣いでしかないということにその校長は気付かせてくれた。

 振り返ってみると私自身、昔から校長の言葉などというものは、ちゃんと聞いていない。何一つ覚えてもいない。きっと通り一遍のどこにでもあるような式辞など、立派なことを言ったとしても、それを聞いている生徒たちの心には届いていないのである。多分世の中のあらゆるスピーチの中で、聞く人の心に訴えることができるものはほんのわずかだろう。私たち教職員の力不足ゆえ、指導が行き届かないまま美容師という離職率の高い仕事に就かせなければならない無垢な若者たちに、何を言えばいいのか。私の目標は、これまで誰にも注目されてこなかった校長の言葉というものを、何年か経った後で思い出せるような話をすることだ(きっとそんな卒業生はわずかだろうが)。

 まず私は原稿を読むのをやめることにした。読むと目線が下がる。生徒にかける言葉なのに肝心の生徒たちを見て話さないなんてダメだと思ったのだ。原稿なしで舞台に上がるといっても丸暗記ではかえって感情は込めにくいと思ったので、段落ごとにテーマを付け、そのテーマだけは覚えて、最低限話したいことを忘れないようにはした。

 次に自分の言葉で話すために書き言葉をやめて話し言葉でのスピーチにした。ディレクターズスーツの私がスポットの中話し始めると、生徒も保護者も違和感しかなかったのであろう、顔を見合わせたりヒソヒソ話が起きて、それはそれで面白いものだ。その場に座っているほぼ全員が「え?」と思うから、導入の代わりにもなる。

 話の内容についてのルールはシンプルだ。心にないことを言わないことだけだから。前述した、満開の桜だの、人生における旅立ちだのといったどうでもいいような耳触りのいいワードは除外する。そんなことは全く思ってもいないので。卒業生たちの夢を思い、また不安を思い、可能な限り寄り添えるように考えて何度も作り直したものだが、1つの価値観だけははじめから押し付けようと企んでいた。それは我が親に対する感謝である。クサいようだし強引だとは思うが、私はこの気持ちを持てない人は、結局大成しないと思っている。我が親に対する感謝の気持ちも持てない人間に、お客様の気持ちがわかる美容師になどなれるわけがない。

 同じ学園で姉妹校の校長には、登降壇のタイミングからBGMの選曲までこだわる私のことを「誰のための卒業式ですか⁉︎」と薄笑いで批判する人もいるが、「生徒のため」に決まっているではないか。

 卒業する生徒たちの顔を思い浮かべながら、年明けから考えはじめた卒業式におけるスピーチは、プロットが完成しこれから当日までは練習期間だ。

障害・障碍・障がい

大阪湾の埋立地にあるテーマパークに久しぶりに家族で行ってきた話。伊勢志摩の古い料理宿に一泊することと、この大阪版夢の国に行くことの2つが我が家のここ数年の恒例行事である。この非現実の遊園地には春に訪れるのが決まりだったが、去年のその時期には例のウィルスに日本中が過剰反応していたせいで、決行は11月末に延期になってしまっていた。師走になると娘が家を出て彼氏と住むということもあって、ご大層なものでもないけど、一家が揃っているうちに家族全員で出かけようってことになったものだった。

さて当日は天気も良く行楽日和ではあったが、コロナの影響で人出は少なかったため、懸念していた来場者同士の密接な接触はなく、また主催側の様々な配慮もあって、感染予防という観点では全く問題を感じなかった。朝夕の混んだ電車に乗っている方がリスクははるかに高いだろう。

この手の施設では感じの良いキャストが車椅子を囲んだ私たち家族に親切にしてくれるから、嫌な思いはほとんどしないで済む。キャストの教育とその水準の維持・管理はどのように行なっているのだろうかと来るたび思う。しかし一方で一般の来訪者というものは色々で、我々のような来場者に対する敵意とも取れる態度を隠さない人もいる。実際特別なパスを使う私たちに向けられる目は必ずしも温かくはない。キャストに誘導されて、一般客が並ぶ列の横に設けられたレーンで車椅子を進めていくと、「ええなぁ並ばんでもいいから・・・」といった類の言葉や、いよいよ乗り物に案内される時など、車椅子を降りた妻が短い距離ながら歩き出すと、「立てるなら初めから歩けよ・・・」という小さな、しかし悪意を内包した声が聞こえたりもする。できるならそうしてるよ、、、。

平素妻は病気の症状と薬の副作用の双方のせいで表情に乏しく、見ようによっては能面のような顔をしているから、普段接していない人には何を考えているのかが大変わかりにくいのだが、上記のような心ない声が聞こえたりすると悲しそうな、また時に怒りの表情を見せる。

妻には見えない心のスイッチがあり、OFFの時には目は開いていても脳は覚醒していない。見えてもおらず聞こえてもいない。言葉を発することもないから睡眠しているのと同じだといつも思う。しかしわかりにくい妻の感情も、問いかけに対する反応の濃淡やわずかな目の動きなどで私にはおおよそわかる。

全く逆のことを述べるようだが、ノーマライゼイションという価値観は崇高である。しかしそれは高齢者や障害者が、健常者と同じことが「できる」ことではないと思う。できないことがあるという事実を埋めることなどできないからだ。できないということを、ことさらに優遇し周りの人が補完したところでそれはノーマライゼイションの精神とはかけ離れているだろう。思うに「ノーマル」というのは「自然」という意味に近いのではないだろうか。障害者だからといって偉そうにしてはいけない。障害者は消えない。できないことも無くならない。そこを受け入れ、特別なことになるならば、それこそノーマライゼイションであると信じる。だから私たちも特別な優遇措置が過ぎたりする、と申し訳ない気持ちと「わかってもらいたいなぁ」という思い(ワガママなのかもしれない)が交錯するのだ。

障碍や障がい、また「がい」と発音することを避けるために「ハンデキャップ」といったりするが、私個人は違和感しかない。

オンライン

コロナのせいで「オンライン◯◯」と称する、通信でのコミュニケーションが急に広まった。会議にパソコンで参加する、あの無機質な画面にも最近やっと慣れてきた気がする。しかしこう言っちゃ元も子もないが、ああやって画面で参加してもらっても「参画感」(とでもいえばいいのだろうか)はあまり無い。リアルタイムで繋がってはいるんだろうけど空間を共有できている訳ではないし、そうやって会議に参加していても、私に言わせれば残念ながらその人はただ存在してるだけのオマケの域を超えない。

我が校でも私立中高や大学のように授業をオンラインでやったりしたが、あれはよほど力量のある教員でなければ、画面の向こうにいる電線や電波だけで繋がっている生徒たちを引きつけ、また引きつけた状態を維持することは困難を極める。受講者はものの15分もすれば緊張感を失いその状況に飽きて、自宅でテレビを観ているような顔になる。だから私はオンライン授業の教育効果には否定的なのだが、逆に世の中にはオンラインという形式に抵抗もなく、受講者の習熟度に関しても問題とは思っていない人が存在する。そんな考えの人の中でも特に非現実空論主義者(笑)などは、この先学校には校舎などいらなくなるのではないか?とのたまう御仁も存在する。全てがオンラインで済むから生徒が一堂に会する学舎は不要だといった、私に言わせればアホとしか言いようのない理由からである。しかしもし本当にあらゆることがオンラインで事足りるのならオリンピックだって参加選手をどこか1ヶ所に集めるという形式ではなく、いっそオンラインでやればいいのではないか? それぞれの国の競技場で行った同種目の記録を集計して順番をつければ、陸上や水泳など個人のタイムで競う競技を行うことは理論上可能である。オマケに各国選手の開催国までの距離の不公平も解消される。競技を行う上での条件が違うからダメだという意見も聞こえてきそうだけど、条件を規定化して本部で一括管理すれば不可能ではない。そもそもこれまで通り一ヶ所で集まってやったところで、競技ごとに細かな有利不利なんか数えたらキリがないし、所詮平等な条件設定など無理な話なのだから。オンライン授業には問題は無いが、オンライン競技会は不可能だという根拠を聞きたいものである。

クリスマス?

イブである。キリスト教徒でもないのにとか、宗教がどうのこうのはもういい。したり顔でのそんな主張は聞き飽きた。でもそれより「メリークリスマス」って言われて、ふざけずに「メリークリスマス」って返せる日本人はいるのだろうか? 昔子供からそのワードを言われた時にはなんと返していいのかがわからず絶句した覚えがある(笑) メリーって何なんだよ?と思ったものだ。結局イエス・キリストを有難いと思えないからそう返すのが恥ずかしいのだろうね。でも私は日本でもクリスマスはあっていいと思う。子供にとってワクワクする嬉しい日という以上の意味はないとは思うけど。だから決して若い男女がチチクリあう日ではない。あれはいけません。偉大な神を愚弄するにも程があるではないか(笑)