孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

めざましTV応募作品(おはよう。)

幸せのかたち ープレゼントー

 妻の人生は子供の頃から病とともにあった。ちょっと体を動かすと息が切れ、ひどい時には倒れてしまうというような子供時代を送っていた彼女が、左の鎖骨の上に心臓ペースメーカを入れたのはわずか15歳の時である。郷里の出雲から就職のために大阪に出てきたことで妻は友人を通じ、同じ大阪で働いている私と知り合うこととなった。しかし予想通りというか、恐れていた通りというか、交際が進み将来のことを考え始めると、私の親は妻の健康を、また妻の両親は美容師という私の職業をそれぞれ問題視した。双方の親が自分の子供にはもっとふさわしい相手がいるだろうという考えを持っていたため、結婚について具体的な話になればなるほど、いちいち価値観の相違からくる不満が表出し、一時はこの話自体が紛糾、ご破算にもなりかけた。私の親は心拍数が一定のままであるため走ることもままならない妻の体のことが嫌でも気になったし、妻の親はそのようなハンデを持った我が子を、美容師という不安定この上ない職業(当時の妻の両親の価値観にあてはめると)に就いている男になど任せられないという訳だ。
 紆余曲折の後 それでも縁があったのだろう、私たちは結婚することになった。しかし覚悟していたことではあるが、結婚した後も相変わらず妻にとって病院は身近なものであり、検査、入院、夜間診療、救急病院・・・そんな普通の家庭なら特別な事態も、我が家では珍しいことではなかった。それでも結婚後十数年間は私たちなりに幸せな家庭を築けたと思う。そればかりか当初私は考えも望みもしてはいなかったが、進歩する医療技術のお陰で2人の子供にも恵まれた。

 しかし40歳を過ぎる頃だろうか、妻は自分勝手なふるまいが目立ちだし、ちょっとしたことですぐ怒るようになった。そのため彼女が周囲の人とのコミュニケーションが取りにくくなっていることに私は変だと思い始めた。外で見知らぬ人に対しひどい言葉で罵ったり、電話に出れば自分勝手な論理を振りかざし、電話口の向こうの相手と大げんかをする。そうかと思えばパート先の若者たちと朝までボーリングをし、その後は丸一日泥のように眠る。そう、知らない間に妻は劇症型の精神疾患を発症していたのである。そしてそれはまるで彼女のこれまでの病による苦労がプロローグに過ぎなかった程の猛威を振るうものだった。昼夜関係なくひとたびスイッチが入ると妻は目付きが変わり、叫ぶ、物を投げる、壊す、泣きわめく、これらがランダムに起きることで制御できなくなった。妻の心に突然悪魔が舞い降りたように破滅的な行いが繰り広げられるたびに、私は狼狽しながら妻を羽交い締めにし、子供は震えて涙を流した。妻の状況はもう人としての正常な考え方が全くできない領域にまできていた。その妻に振り回され、仕事もしながら子供たちの世話と家事全般をこなす私の心も悲鳴をあげ、何もかも投げ出したい衝動に何度もかられる程で、妻同様私も既に破綻していたのかもしれない。
 病は妻の心を蝕んでいき、あのこぼれるような笑顔の持ち主とは別人になった。少なくとも2人の子供にとって、自分たちが知っている母親は、体は弱いものの人情家で温かい性格だったはずなのに、突如前ぶれもなく豹変してわめき暴れるのだから、目の前で何が起きているのかが私以上にわからなかったことだろう。発病からの数年間はこんな日々が続いた初夏のある日、とうとう親にもらったかけがえのない命を終わらせようとした妻。職場から飛んで帰った私にできることは、力一杯妻を抱きしめることだけだった。色々な意味でもうダメだと思った私は、かかりつけの医師に紹介を仰ぎ、地域でも有数の大きな専門病院の門をくぐることになった。嫌がる妻を車に乗せ、専門病院の待合室で長い長い時間を2人は無言のまま待った。名前を呼ばれやっとの思いでたどり着いた診察室で2名の医師を前にした妻は、つじつまの合わない論理で、自分は独裁者である夫からこれ以上ない程のひどい扱いを受けて、とうとうこんな所にまで来ることになったという内容のことを涙ながらに語った。横に座る私は妻の言葉を唖然として、しかし否定もせず、じっと聞いていた。妻は即時保護入院が決まり、その日の内に準備をしてまたここに戻ってくるよう医師から何度も念を押された。もしかしたら入院が決まっても病院に戻らない人も多いのかもしれない。診察を終えた妻は駐車場に向かう道中、私の背中を両手で何度も力一杯叩いた。
 実際に入院してわかったことだが、精神科の専門病院の閉鎖病棟では、人としての尊厳を保つのに大変苦労がいる。叫んだり暴れたりしなければ拘束こそされないものの、テレビやPC、携帯電話は言うに及ばず、事故防止の観点から室内には全く何も置いてはならないため、生活必需品や消耗品さえ看護師に申請しないと手に入らない。タオル1枚 、ティッシュ一枚持つことができないのである。ナースコールが見当たらなかったのでそのことについて聞くと、常時モニターされているので必要ないという驚きの答えであった。そんな環境の中でも、特に女性にとっては最悪の屈辱であろうと想像できるのがトイレだ。部屋の中にただ便器があるだけで視界を遮る壁も無い。ペーパーも看護師に都度もらう訳で、排泄の一部始終も他人に監視されているわけだ。こうなるともはやプライバシーなど無い。妻は担当の看護師がしてくれている病棟のルールや部屋の説明を聞く間、ずっと涙が頬をつたっており、私もしばしば言葉を失った。また入院するにあたり、個人の持ち物や衣類には全てに名前を書かねばならないのだが、家で一人妻の下着にマジックで名前を書きながら、ここでも私は涙を禁じえなかった。たとえば子供用の水着に持ち主の女の子の名前を書くことは、ある意味幸せな行為だろうと思う。しかし大人の女性用の下着に、持ち主の名前をマジックで書くのは書く側にも大きなダメージがある。
 一方入院によって妻がいなくなった我が家には不自然な平穏が訪れた。表面上は子供たちに笑顔が戻り、私はゆっくり寝られる夜を久しぶりに経験した。入院前には出来なかった部屋の片づけをし、壊れたところの補修をした。最もひどいところは壁の穴で、妻が子供に物を投げつけた跡である。娘の部屋の引き戸は外れるまで妻が蹴り続けたため上部が割れていたし、窓に設置しているロールスクリーンも妻によって引きちぎられていたので分解しての修理が必要だった。私はそれらをできる限り元に戻した。しかしそんな日々はあっという間に過ぎ、ゴールデンウィーク明けに入院した妻の病室から見える窓の外の景色も初秋の景色に変わった。入院する直前に叫びながら狂ったように自分自身の手で滅茶苦茶にハサミで切った髪も少し伸び、再び妻を家に迎える日が近づいてきた。
 退院の日を心待ちにしていた妻。しかし完治を期待して病院での生活を過ごしたものの、再び我が家に帰ってきた妻は私たちの期待を裏切り、状況は改善せず、入院前と同様かそれ以上に躁期と鬱期の振り幅はかえって大きくなったようにも思える日も少なくなかった。職場から帰宅した私が真っ暗の部屋に灯りをつけると、家の中が妻の手でめちゃくちゃになっているようなこともしばしば起きたし、マンションの9階にある我が家のベランダの柵を乗り越え、飛び降りようとする妻をやっとのことで引きずり降ろした後、泣きじゃくってもがく肩を抱きしめながら、私も涙があふれて仕方がなかった夜もある。またしばしばODと呼ばれる、薬の大量服用をした。水を飲ませ、薬を吐かせようとする私に身を任せながら、朦朧とした意識の中で妻はいつも泣いた。
 夫である私は急な欠勤や遅刻・早退を発病以後幾度となく繰り返してはいたが、結局踏ん張りきれずに職場を去らざるを得なかった。家事全般に加えて妻の介護を行うことで、慢性的な疲労と睡眠不足による蓄積疲労が頂点に達していた私自身を守るためではあったが、どうしてもこの仕事は辞めたくなかったので まさに断腸の思いだった。しかし私が仕事をやめなければ、首の皮一枚で繋がっている「家族」や「家庭」というものが崩壊すると思ったのが本音である。唯一の収入源を失った我が家はたちまち窮地に立たされた。無職になった私が受け取れる失業保険金は、有難いことには違いないのだが、親子4人が生活していくには話にならないような金額だった。このまま自分たちはどうなってしまうのだろうという不安で眠れない夜を過ごしながら、私は人生における色々な希望や願望を諦めないといけなくなった運命を呪った。妻の容態は何も起きない穏やかな日と、落ち込んで底のない暗闇に至る日が繰り返す。そしてその間に無慈悲にも時折凶暴な悪魔が舞い降りる。何も変化のない日がしばらく続いたりするとやっと峠を越えたか?という淡い期待を持ったが、その後必ず鋭いが牙がその期待を打ち砕き、簡単には妻や私たちを許してはくれない。

 その日の夜から大雨になるという梅雨のただ中、妻の兄が亡くなった。朝報せを受けた妻が降らせた涙雨だったのかもしれない。妻の生家がある地域は大変古い町で、私から見ればかなり閉鎖的な異空間であり、本当に融通のきかない土地柄である。風習やしきたりに縛られ、それを破ることは許されないような同調圧力が厳然と存在しているから、美容師という職業で、しかも男のくせにそんな仕事についている私は、明治以前より代々続く本家の長男である義父からは全く受け入れられなかった。初めての訪問の折には、結婚のあいさつを兼ねて義父に注ごうとした酒徳利を一瞥し、手の甲で私の方にいらぬと押し返され、私は言葉と居場所を同時に失った。以降もしばらく義父は私とは目を合わせなかったし、何かを問いかけても生返事しか返してもらえなかった。
 肺癌により自発呼吸がままならなくなった義兄は、病院にいるのが嫌だと駄々をこねて自宅にベッドを置かせ、自分が計画した通りの形で永遠の眠りについた。取るものもとりあえず駆けつけた私たちが、義兄の家の座敷に敷かれた寝具の上で見たのは、末期癌と戦い抜いた末の、生前からは想像もつかないどこかの痩せ衰えた老人だった。長兄に続き次兄を亡くし、自分以外の実家の家族が全ていなくなった妻は、「これで一人になってしまった」と声をあげてその場に泣き崩れた。
 今振り返るとこの義兄のお陰で、私は妻の生家になんとか入れたような気がする。少なくとも彼がいなければ、私と妻との結婚はさらなる苦難の道だったに違いない。折に触れて頑固な義父母をなだめ、とりなしてくれた。義兄は高校卒業後、生家を出て単身神奈川の小売業の会社に就職、スーパーの責任者にまでなった。奥さんと子供を得た後、思い切り良く故郷に戻り居酒屋を開業した義兄。気に入らない客とは大声で喧嘩もする、ある意味人間味溢れる男だった。しかし気力では病に勝てない。医療がこれだけ進んだ現代においても、人の運命は予想できないし、誰もが人生の最終局面において、辛くて辛くてやりようのない時間が義務として与えられている。人生の最後には辿ってきた道程をゆっくり振り返る時間があるのが理想だ。せめて苦しみなく穏やかにその時を迎えることこそ尊厳というものではないだろうか。反対意見もあろうが私は個人的には日本でも安楽死を容認してほしいと思っている。
 バタバタと葬儀と初七日の法要の参列を終え、翌日仕事があった私は慌ただしく帰路についた。帰りの車の中、しばらくぐったりしていた助手席の妻が、「絶対私より先に死んだらあかんよ・・・」と前を向いたまま力なく呟いた。

 来し方を振り返った時、渦中にあっては気付けなかったことだが、私の人生において幸運だったことは、妻と結婚できたことだと心から思える。妻と出会い結婚して20年位は、なんということのない普通の夫婦であり家族だった。あえて一つ何か特別なことがあるとすれば、妻には先天的に心臓の機能に問題があったために身体障害者であったことくらいだ。その妻が四十代の中頃になって、前述の通り新たに心の病を得た。それは私の想像をはるかに超える悪夢だったのだが、当初そのことで私は妻や自分の運命を呪っていた。どうして妻にばかりこのような試練を与えるのか。私たちにこれ以上どうしろというのか。しかし精神疾患における闘病の日々には、そんな甘っちょろい感情を差し挟めるほどの余裕はなかった。いつも必死で涙と汗と寝不足の毎日であり、目隠しをされたままでの全力疾走だったからだ。
 妻に発作的な症状が出ることがほとんどなくなった今改めて思う。この世に神というものがいらっしゃるならば、私は罰を科された訳ではなかったのだと。逆にこの10年間というものは、自己中心的な私に人として大切な『幸せになってほしい人のために生きる』という価値を教えてくれたプレゼントだったのである。全能の神は私に超えられない困難を与えられなかった。私たちが直面した試練は一旦は家族や家庭を根底から破壊しそうになったが、周囲に多大な迷惑もかけながらではあるものの、なんとか奈落に転落することは避けられた。
 あなたにとってこの世で一番大切なものは何ですか? と聞かれれば、「妻です」とためらいなく答えられる。若い時のように愛でも恋でもないが、妻が少しでも多くの時間微笑んでいられるために、悲しい思いや惨めな思いをしないように、この先生きていきたい。そう考えると私は間違いなく幸運であり幸福なのだと思えるのだ。
 我が家では毎日の家事のほとんどは私がやるから、夫婦2人分の朝食も当然私が作る。運動らしい運動ができない妻の体調維持のため、フルーツを盛合せにしたワンプレートである。毎朝食事の準備ができると妻を起こしに寝室に戻る。「おはよう」。まだ眠そうな妻の手を取って体を起こし、私たちの一日が始まる。