孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

K代ちゃん

 仕事からの帰り道、電車を下りてすぐに電話の着信に気付いた。妻からだ。良くない予感の中、出るといきなり泣きながら私を呼ぶ声が聞こえた。こんなことはこれまでも数え切れないほどあったが、今回は違った。咳込みながら妻は「K代が死んだぁぁぁぁぁ!」と叫んだ。

 今から36年前、妻とK代ちゃんは某化粧品会社の新人美容部員として出会った。地方出身者である2人は池田市にある寮で、慣れない都会暮らしの寂しさを慰めあいながら仕事を続けた。メーカーの美容部員などという仕事は、女の園の中でいくつものグループができ、いじめや嫌がらせだらけの日常との戦いでもあった。はじめに寮を飛び出したのはK代ちゃんで、追うように妻はそのアパートに転がり込んだ。郷里から大阪に出てきた2人にとって、日本橋の小さなワンルームが意味するのは、狭いながらも無神経な先輩に気を遣うこともなく、また同期の妬みもなく、故郷の実家以来はじめて自由でストレスの無い家を手に入れたということであった。

 お互いが結婚をし子供をもうけた。それぞれの家庭を守りながらも交流は続き、気がつけば何十年もの歳月が流れていた。その間私やK代ちゃんの旦那は女同士の友情に付き合っていたようなものだ。

 50歳を過ぎたある日、K代ちゃんの体に異変が起きた。卵巣ガンだった。しかも胃への転移があるステージⅣである。それでも彼女は気丈に振る舞った。やっていた喫茶店も卵巣の全摘手術の入院期間を除き、たたむことはせず続けた。私の妻も決して健康とはいえないが、皿洗い位はできるといってK代ちゃんの店を何度か手伝った。K代ちゃんは辛い抗がん剤に泣き言も言わず耐えた。脱毛によるウイッグの相談には私がのった。その時も笑いながらだったし、彼女の病気のことで泣いているのはK代ちゃん本人より私たち夫婦の方だったかもしれない。

 もしかしたらステージⅣといっても、現代の医学では治るのかもしれないなぁ位に呑気に思っていた我々に、訃報は突然やってきた。体調悪化により入院中だった彼女は、火曜に吐血、水曜深夜に意識混濁、そして金曜に亡くなった。2020年1月31日午後6時27分。53歳。若すぎた。それを知った妻は私が予想していた通りに荒れ、叫び、乱れた。無力な私は横にいてどうしてやることもできなかった。

 

 K代ちゃんは病院で亡くなり葬儀場に運ばれた。場所を聞いてその夜K代ちゃんに会いに行った。部屋にいる人への挨拶もそこそこ、きれいに化粧をしてもらったK代ちゃんの顔に妻はすがりつき、崩れ落ちた。私は涙の中でそれを見ているしかなかった。また不謹慎ながら私は妻が心配だった。このことで彼女が持つ精神症状が悪化する懸念である。「死ぬのはK代じゃなく私だったら良かったのに!」私はこれまで妻を看病してきて、自己肯定感が極めて低い彼女がそう思うのは間違いないと思った。

 葬儀は2月3日に決まった。参列するなら2日の日曜日にしたいところではあったが、火葬場の都合で日が延び、最後のお別れは月曜日になった。私のいない明日月曜の葬儀に、妻を迎えに来てもらう段取りだけはつけ、私たち夫婦は、今から通夜に行くための悲しい準備をしなければならない。