孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

命のともしび

その日の夜から大雨になるという梅雨のただ中、義兄が亡くなった。朝報せを受けた妻が降らせた涙雨なのかもしれない。

妻の生家がある地域は私から見れば相当閉鎖的な異空間であり、本当に融通のきかない土地柄である。風習やしきたりに縛られ、それを破ることは許されないような同調圧力が厳然と存在する。そんな中、義兄は何かある度に特別視される私を、家や地域から守ってくれていた恩人ともいえる人だ。チャラチャラした安定しない美容師という職業、しかも男のくせに。中でも江戸時代から代々続く本家の長男である義父からは全く受け入れられられなかった。初めての訪問の折には、義父に注ごうと差し出した酒徳利を一瞥し、手の甲で私の方にいらぬと押し返され、私は言葉と居場所を同時に失った。以降もしばらく義父は私とは目を合わせなかったし、何か問いかけても生返事しか返さなかった。それでも私と妻は縁あって結婚し、あまつさえ心臓機能に障害のある妻ゆえ全く期待していなかった子供を2人授かった。

数年後、最後まで私には信頼感を持たぬまま義父はガンで逝った。その後15年程の間に妻から見て長兄、そして母が鬼籍に上り、子供の頃から親子5人だった家族は次兄と自分の2人になった。それでも盆やGWなどにはお互いの子供たちも加わって行き来をするなど、それぞれの家族で距離は離れていても平和で親しく交流する時間が続いていた。

次兄を亡くし「これで一人になってしまった」と妻は呻いた。肺ガンにより呼吸がままならなくなった兄は逆に病院にいるのが嫌だと駄々をこね、自宅にベッドを置いてその上で当初の計画通り、私より2つ上の頑固な男は永遠の眠りについた。取るものもとりあえず駆けつけた私たちが見たのは、末期ガンのため痩せ衰え、生前からは想像もつかない変わり果てた老人だった。

今振り返るとこの義兄のお陰で私は妻の生家になんとか入れたような気がする。少なくとも彼がいなければ、私と妻との結婚はもっと苦難の道だったに違いない。折に触れて頑固な父をなだめ、母をとりなしてくれた。義兄は高校卒業後、生家を出て単身神奈川の小売業の会社に就職、スーパーの責任者にまでなった。奥さんと子供を得た後、思い切り良く故郷に戻り居酒屋を開業した兄。気に入らない客とは大声で喧嘩もする、ある意味人間味溢れる男だった。

しかし気力で病には勝てない。医療がこれだけ進んだ現代においても、人の命は神が握っており最期の時には皆苦しむよう決められている。誰もが人生の最終局面においては、辛くて辛くてやりようのない時間が義務として与えられているのだ。反対意見もあろうが、私個人としては、日本もオランダのように本人の希望ならば安楽死を容認してほしいと思っている。

海と釣りが好きだった義兄の遺影を乗せ、霊柩車は目的地とは逆方向に進み、海岸線をしばらく通った後に斎場に向かった。また葬儀が始まるにあたっては、義兄が愛したサザンオールスターズの曲を弔問客の迎え入れのBGMとして、特別にピアニストが奏でてくれた。普段サザンの歌は、有名な曲なら知っているいう程度の距離感だったが、その時の数曲は心にしみた。妻は声をあげて泣いていた。葬儀会館のこの2つの心遣いは嬉しかった。

とりあえずしないといけないことは終わり、翌日仕事があった私は、慌ただしく帰路についた。帰りの車の中、しばらくぐったりしていた助手席の妻が、「絶対私より先に死んだらあかんよ、、、」と前を向いたまま力なく呟いた。