孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

どうせ死ぬなら

50歳前後から自分の人生観が変わってきた気がする。昔は若くて元気だった親が老い、そしてその死に直面したからか、自分自身もいずれ死ぬことを意識せざるを得なくなったし、人生における宿命としての死が身近に思えてくる。しかし考えてみればこの世の中はいかに生きるべきかばかりに注目していて、いかに死ぬかという視点が決定的に足りないと思う。生きることの最後の瞬間が死なのであれば、死に方は生き方の一部ではないか。

死ぬ時のことを考えてみる。いや、死にたくはないし今は絶対死ねない。でもあえてその時のことを考えてみる。どうせ死ぬならこんなのがいいとかこんなのは嫌だと思ったことの羅列である。それぞれに関連はなく独立しているから2つの項目が同時に成り立たないこともある。

 

どうせ死ぬなら大勢で

何百何千人の人たちと同時に死にたいもんだ。私が常々疑問に思ってることは、たくさんの人がいっぺんに死んだ時にはやれ援助だ、やれ仮設住宅だって、行政からの保障があるんだよ。でもこの世のほとんどの人間は一人で死ぬわけだ。そして当たり前だが一人で死んだ人には行政からは特別な補償は無い。それなら遺した家族のために、死ぬ時には他の大勢の人と一緒に死にたい。

どうせ死ぬなら妻の死後すぐに

妻亡き後、ひと月もしない内に私もこの世にお別れをしたい。妻を看取れば人生における私の仕事の大半は終わったのである。この世に未練はもうない。生き甲斐もなければ楽しみもなかろう。

どうせ死ぬなら老衰で

痛くなく、苦しまず。ある夜いつものように眠りについたら、次の朝目が覚めなかった、、、って感じが理想かな。これ、怒られますか? ま、小学生の休み時間にするような、他愛のない話だと思ってくださいませ。

どうせ死ぬなら海が見える窓辺で

私の郷里の海は子供時代の輝ける思い出が詰まっている。生家のある離島の周囲には、あまりに美しい東シナ海が広がる。そこで死ぬのはきっと無理だから、せめて私が横になるベッドからは窓越しに、少しでいいから海が見えていてほしい。

どうせ死ぬなら、、、こんなのは避けたい

溺れたことのない人、また潮流に流されたことのない人にはわかりにくいかもしれないけど、あの恐怖あの苦しさ。もうニ度と嫌だ。

身動きが取れないままの圧死は嫌だ。私は閉所恐怖があるので、体の自由が効かないっていうのは怖いというより狂ってしまいそうになるんだよー。

事故で即死するのはまっぴらごめんだ。だって死ぬための準備が何もできないじゃないか。どんな思いもどんな計画もどんな楽しみも全て一瞬でパーだ。死ぬんだから自分の心の中の始末をつける時間くらいは欲しい。

 

いかに生きるべきかの本は今日も発刊されている。しかしいかに死ぬべきかはエンディングノートの類いしか発刊されていないだろう。もっと 死にかた(=生き方) の書籍があってもいいのにと常々思っている。