孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

生まれ出る悩み

 仏教における「無」の境地は、我々のような俗人にはとてもわかるものではない。私たちのことなど100年も経てば誰も覚えてはいない。100年の後、人の話題にのぼるのは余程の偉人か、逆に余程の悪人であろう。

 さて人生とは一体何なのだろう。「生物はDNAの乗り物に過ぎない」と言ったのはイギリスの動物行動学者のなんとかって人だが、そう、人物と呼ばれるものもヒトのデオキシリボ核酸の「家」でしかない。家庭で最も大切なのは建物なんかじゃなくその中に住む人間だからそれと同じ理屈だ。建物や人はそこに「ある」または「いる」というだけだ。それらが一つだけ違うのは、その人が子孫を残さない間に死んでしまったら、DNAも消滅し、そこで流れが止まるということである。ただし将来、ある人の体の一部から同じ人間を作り出せるようになるならば、この理屈もまた覆されることになろう。

 人は何のために生まれるのか。何のために生きるのか。生きなければならないのか。生きているのがこんなに辛いのに、、、。こう考える人は少なくないと聞く。仏教では生老病死を四苦というが、その始まりである「生」で既に思うようにならないと苦しんでいる。確かに自分がこの世に存在する意味を考えると、多くの人が答えを出せないのではないだろうか。でも答えを探している間は、逆に見つけられないんじゃないのかなぁと思う。人が存在する理由に正しい答えなど無い。嬉しいことがあれば喜び、悲しいことがあれば落ち込む。人は自らの意志に関係なく生まれ、本能と理性の中で生きていく。美味いものを食べる喜びや、好きな人のことを思う高揚した気持ちもあれば、あまりの辛さに泣き明かす夜もある。それで良いしそれが人生だと思う。意味や理由など、全て後から生み出すものだ。初めからあるわけなどない。だから「生きている意味がわからない、、、」と悩む人の相談をこれまでに2,3度受けたが、そのたびに「そんなものはない」と答えてきた。これ以上誰に何を望むのだ? 生まれた理由と生きる意味は、あなたがこれから見つけるものであり作り出すものだと。

 ちょっとカッコ良すぎますか(笑)?