孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

「普通」への同調圧力

「普通」ってなんなんだろう。「普通」という言葉を話の頭に付ける人はなんだか信用できない。「男やったら『普通』そんなことせんやろ?違う?」みたいな。この場合の「普通」には多数への同調が強制されている。多くの人がする判断こそ「普通」ということなのである。しかし本当にそうか? これは日本人特有である、マイノリティを排除するようなイヤな価値であり、私たちは多くの人と同じことをしなければいけない同調圧力の中で生きているのである。「普通そうだよな?」などとと言い合いながら。

しかし思うに人生における生きづらさというのは、「普通との比較」なのではないだろうか? 街を歩く人、そこらにいる隣人や友人と自分を比較して、感じる差こそ劣等感なのではないか。そうなると一体「普通」とは何者なのか?

「普通の家庭」「普通の容姿」「普通の人生」「普通の仕事」「普通の収入」「普通の彼女」、、、。しかしここでいう「普通」が多くの人と同じという意味ならば、自らの身に起きること全てに「普通」であることをコンプリートできる人がはたして存在するのか? 答えはNOである。そんなことあり得ない。

誰もが自由に信じたことをできればいいのだろうけど、「普通」であらねば変なヤツだという押し付けがそれを許してくれないのだ。その結果「普通」であろうとするために本来の自分を歪めてしまう。完全にマインドコントロールされてしまっている人などは、絶望にもがき、死をも考えるほどの生きづらさを感じてしまうわけだ。こうなると「普通」は、もはや劣等感を生み出すだけの呪いでしかないのではないか。

多様性という言葉は使う人によってペラペラになってしまうものだが、それをこれ程わかり易く表現した詩があろうか。そんな作品を紹介したい。

 

「私と小鳥と鈴と」   金子みすゞ

   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが
   飛べる小鳥は私のやうに、
   地面を速くは走れない。
   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のやうに
   たくさんな唄は知らないよ。
   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。