孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

うみにおふねをうかばせて

 離島での暮らしは船抜きでは語れない。都会の人が電車を使う以上の日常感かもしれない。たまに現在の生活エリアである大阪で自分のふるさと話をする際、嫁入りや引越しも船でやるってことが、そんなに驚くことなのか?とこっちが驚いたものだ。
 船という乗り物は何とも独特のものだ。別れるのが辛い人や場面なら、できることなら船を最後の別れの場にするのはやめた方がいいと思う(選択はできないことが多いだろうが)。あのダメージを的確に表現することなどできないが、あえて、あえて、モノで例えるなら、肉体の中にある心を肉に見立てて、その肉の両端を両手で掴んで左右に引きちぎるような痛みとでも例えようか。刃物で切るのではない。手で引っ張ってちぎるのだ。船の別れは心もちぎれる。だから回復に時間がかかるのだが、なぜそうなるのかを考えてみた。いくつか理由はあるが、一つは場合によっては人を死にも追いやる水という冷たいものが間にあることで、絶対的な隔たりが二者間にできてしまうことが大きい。そして二つ目は、別れというものを体感している時間が長いということだ。乗船客が船着場に到着するのは出港時間ギリギリではないから、乗船した後デッキと桟橋で見つめ合う時間がある。本当に別れたくない時には、見送る側は船の中に走って行きたくなるし、船に乗って見送られる側ならもう一度タラップを駆け降りたくなる。それが叶わないから見つめ合うのである。
 さていよいよ出港時間になっても、通常船は前向きに港に着岸している(船首から前向きに港に突き刺さっている)ため、狭い港の場合はまず真っ直ぐ後ろに下がる。そしてUターンができるところまで岸から離れると、そこで反転して(前向きになって)湾から出て行くというプロセスをたどるから、外海に船首を向き直す間に別れる人と離れたと思えばまた近づいたりする。まるで運命に弄ばれているかのように、なかなか踏ん切りをつけさせてくれず、それがかえって辛い。このじわじわ引き裂かれる感覚は、しばらく尾を引くことになる。
 子供の頃幼いながら何度か船で辛い別れをした。何かのきっかけで今でも、いや今だからかもしれないが昔のことを思い出して、改めてその頃の感覚が蘇ることがある。それは辛いことは辛いのだけれど、この歳になって桟橋の臭いや音がやはり懐かしい。そんな時、頭の中には毎度のように繰り広げられた、切符が見当たらないと慌てるおばさんや男泣きするじいちゃんたちがリアルに登場する。船の記憶にはそんなドラマもセットになっているのである。