孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

浄土の父へ ー 七回忌を迎えて ー

 6年前。普段めったに話もしない兄から夜中に電話があり、あなたが旅立ったことを知りました。その報せを聞いた時には自分でも拍子抜けするくらい なんとも思わなかったのに、電話を切り再び布団に入ると 不思議なことに子供の頃のことが次々に頭に浮かんできて涙があふれました。あんなに恨んだ時もあったのに。そしてまだ赦したわけでもなかったのに。

 もう何十年も昔のことですが、あなたの無責任といい加減さ、またそれに伴う借金やゴタゴタのおかげで、残された私たち母子は、社会から取り残されることになりました。会社を辞めさせられたあなたは自業自得だから仕方ないにせよ、離婚を余儀なくされた母は人生における色々な夢や希望を手放しました。 私たち兄弟は母に連れられ行き場を失い、通う学校がない時もありました。私が10歳になる年には住まいを次々と変わったために わずか1年の間に4つの小学校に通いました。母の実家の近くに逃げ込んだ時には周りの人たちの好奇の目は痛かったです。田舎の人が優しいのはテレビの中だけだと思い知りました。クラスメイトに別れのあいさつさえさせてもらえず、夜 こそこそと仮の住まいから出て行く辛い引っ越しを何回も経験しました。私たちは糸の切れた凧のようでした。母は昼間こそ気丈に振る舞いながらも、夜遅くなってからの声を殺した嗚咽を幾度となく聞きましたが、一番辛かったのは 私と兄に、こんな生活を余儀なくされることへの謝罪をする母を見ることでした。少なくとも謝らなきゃいけないのは母ではないですけどね。

 住まいを転々として、もう頼る人もなかった私たちに、ある日あなたは突然会いに来ました。自分の素性がわからないように、顔を包帯でグルグル巻きにして。でもあっという間にどこかに立ち去ったあなた。幼い私には何もかもがわからなかった。あの日のことは決して忘れられず、今も心に何かが突き刺さったような悲しい思い出です。

 あなたは美容師を「チャラチャラした」仕事だといっていましたし、最後まであなたにはこの仕事の価値を理解してもらえなかった。それはあなたの叔母にあたる大叔母さんも同じでした。後に美容師を目指すことを報告した時に一笑に付され「婆さんの汚なか頭ば触って嬉しかね?」と言われたなぁ。そんな言い方をした彼女は長年小学校の教師をしていた教育者です。私たちはその大叔母の家にもわずかな期間ながら居候させてもらいましたので当時は確かにお世話になりました。でも私はその言葉を忘れません。

 あなたにもあなたの叔母さんにも、生きている間に私の仕事の価値をわかってほしかったけどもう遅い。残念です。今私は人を教育する仕事をしています。あなたやあなたの叔母さんが「チャラチャラした」仕事だといった仕事において 次世代を担う人材を育成しています。 

  

 あなたが亡くなる間際のわずかな時間、なぜかあなたは母を優しい目で見、母はあなたに頼るという 今まで見たことのないような 穏やかな時間が訪れました。長らく続いたあの悪夢のような状態は何だったのだろうと思えるほどでした。2人で散歩をし、2人で買物に行き、2人でテレビの前で笑う。そんな不思議を見て、私はこう思いました。この穏やかな時間こそ、結婚というもののゴールなのではないか? このような日々を穏やかに迎えるために人は結婚というものをするのではないか。この時間を得られた人が、結婚生活の成功者なのではないのかと。

 浄土に住まうあなたの命日には毎年机に花を一輪飾っています。花など愛さなかったあなたは、きっと私の机の上に咲くバラを見たら笑うのでしょうね。でも、それまでずっと家族に苦労を掛け続けていたあなたが、人生最後のほんのわずかな時間 母を大切にしてくれたことが嬉しいのです。母にそんな優しい伴侶の思い出を作ってあげたことが嬉しいのです。

 

 母はすっかり弱っています。体はもちろん、頭も心も世の中についていけなくなっているのは、あなたのいるそちらの世界に魂を半分とられているからです。そんな母を見ていると、この世に生を留めていることは、彼女にとって本当に正しいことなのかと考えることが多くなりました。

 来月母に会いに行きます。もう口を開けて寝ているだけの母にやっぱり会いに行きます。目を覚したとしても、息子の私が誰だか分からなくなった母に。

 あなたはどう思っていますか?