孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

歌は世につれ世は歌につれ(笑)

 振り返ると嬉しい楽しいより、悲しいとか寂しいという思い出の方が圧倒的にたくさんあるなぁと我ながら嫌になる。言い換えると、これまでの人生の中で今が一番楽しいのだろう。今回はちょっと重いです。暗い話が嫌いな人は、ゴメンなさい読まないでね。

喝采
 私の心に刻まれた最初の歌は、ちあきなおみさんのこの曲だったんじゃないかと思う。子供だった私が母から聞かされたこの曲の歌詞の内容は、1.以前交際していた男性が亡くなったこと 2.そんな現実の中にあっても自分は歌手としてお客様の前で歌わなければならないこと 3.ちあきなおみさんの身に実際起きたこと の3つ。こんなに辛いことがあるのだろうか?と子供心に思ったものだ。今やコロッケさんの定番の演し物になってるけど、それを見て正直どこかちょっとイラッとする(笑) いや、面白いことは面白いんだけどねー。

《また会う日まで》
 もみあげといえば高見山尾崎紀世彦だな。高見山はハワイマウイ島出身の外国人(後に帰化して日本名は確か大五郎だった)で、私は自分が大好きな軽量力士である貴ノ花(若貴のお父さん)との一番に毎場所ドキドキしていたものだ。日本人にとっては彼の真摯な姿勢やその反面TVのCMなんかでのお茶目なところがウケた。しかし彼のトレードマークはなんといってももみあげである。まぁ全身毛むくじゃらだったからもみあげだけじゃないんだけどね(笑) 貴ノ花と戦う時以外は大好きだったなぁ。
 もう1人のもみあげ界の雄、尾崎紀世彦の話をしよう。私が小学校4年生だった年末、大みそかに「また会う日まで」を何回聴いただろう。そして我が家にはこの曲のシングルドーナッツ盤があった。あの「レコードが欲しい!」って感覚は何なんだろうね。シングルレコードは、3回も連続で聴いたら飽きてしまってその日はもういい(笑) 次の日にも同じくらい聴いて、その次の日も、、、その内聴かなくなってしまう。飽きるだもん、だって(笑)
 子供の私はこんなに声量があって歌の上手い人はこの世にいないと思っていた。でも今テレビで「懐かしの、、、」みたいなやつで見ても、あれ?それ程じゃないなぁと感じてしまう。失礼ながらあの程度ならゴマンといるよなぁ。ジェニファー•ハドソンやアレサ•フランクリンあたりと比べた日にゃあ、甚だ失礼ながらお話にならんな(個人の感想ですw )。

《明日に架ける橋》
 私の人生の中で10歳前後の数年間は、通常子供が経験することはないであろう波乱に満ちたものであった。会社の金を使い込んだ父と離婚した母は、私と兄を連れ、まるで朝ドラの苦労話のように社会に放り出され、見事に露頭に迷った。嘘みたいな話だが私は5年生である1年間に4つの小学校を転々とし、通う学校が無い時期さえあった。クラスメイトに別れのあいさつもできず、夜 こそこそと仮の住まいから出て行く引っ越しは寂しくて辛かったし、田舎の人が優しいのはテレビの中だけだとも思い知った。そんな中で、母の実家近くに一時期住んだ時、遠い親戚が近所に(といっても歩けば30分で着かないが)あって、そこのおばさんにだけは母も気を許していた。その家の少年がサイモン&ガーファンクルが好きで、私たちが訪れた時にはよくかけてくれた。私はあのデュオの歌声が大好きである反面、彼らの曲を聴くと当時を思い出して悲しい。子供の私は英語などわかるはずもなかったが、美しくもはかないメロディは令和の今も輝きを失わないし、卒業式の校長式辞のバックにはずっと変わらず「明日に架ける橋」がBGMだ。

《君の誕生日》
 かつてガロというフォークグループがあった。数曲のヒット曲を生み出し、静かに消えていった印象だ。私が小学校6年生頃のある日、母は仕事から帰って来なかった。父の言いつけで私は兄と2人、夜中までめぼしい場所を探した。母の勤め先、公園、駅、市場、と。私の記憶の中で、不思議なことに何故かその日の記憶には色彩が無く景色もモノクロだ。私はどこかで、もう母は自分たちの元には帰ってきてくれないような気がしていた。楽器店からガロの「君の誕生日」が流れていた。悲しかった。涙がポロポロこぼれ、人に見られるのが恥ずかしかった。結局母は父がとある神社で見つけたようで、夜中に2人で帰ってきた。父はしかめて、母はうなだれ、無言で。

《ありがとう》
 私が結婚して20年ほど経った頃、妻が入院した。精神病だった。どうしてこんなことになるんだろう。病院では外界から隔てるために設けられた鍵を2つ開けてもらい、妻の病室に見舞うことが数ヶ月続いた。私は洗濯物を持って帰り、洗ってまた持ってくる。しかし妻は少なくとも初めの1ヶ月、私の顔を見るとあらん限りの悪態をついた。そんなことを言われる筋合いもなければ覚えもないのだが、その期間私は妻にお前呼ばわりをされていた。頼まれて買って来た物も、気に入らなければ私を無能扱いし、それを投げ返して横を向いた。
 私は私のせいで妻を病気にしてしまったとどこかで思っているが、唯一の救いは主治医からの、この病気は遺伝的要因が大きく関わっているという一言だった。徐々に妻の心の角が取れてきたなと思い始めた頃、談話室にあるテレビからは朝ドラの“ゲゲゲの女房”の放送が流れていた。入院以来妻が自分から何かをしようとした最初が、このテレビドラマを見ることだった。テーマソングはいきものがかりの「ありがとう」だ。この歌は、焦点の合わない目でボーッと画面を見ている妻の横顔を思い出させる。あんなに希望に満ちた曲なのに。

栄光の架橋
 先代の理事長は肺がんで亡くなった。典型的なトップダウン、熱意と動物的勘を駆使し一代で我が学園を人気校として築きあげた豪傑である。ワンマンで身勝手な親分には誰も逆らえなかった。理事長の周りでは彼の怒号や罵倒する声がつねに響いていた。
 岡山から新大阪まで新幹線に乗り、そこからタクシーで学園の本部に出勤するのが日課だったが、体調を崩してからは週に一度、最後の方は月に一度顔を出せば良い方だっただろうか。私はほとんど顔を見られなくなった理事長に伝えたいことがあった。まだ話ができる間に、どうしても知って欲しい歌があったのだ。私は校長として毎日日報を理事長に送っていたのだが、ある日意を決してそこに別紙としてゆずの「栄光の架橋」の歌詞を載せた。暴挙ともいえる行為だった。業務の内容を、しかも学校のトップが学園のトップに行う神聖ともいえる報告である。ふざけるなと叱責されても仕方ない。でもそれ以外に理事長に思いを伝える手段がないし、どうしても私はこれを言いたかった。お気を悪くされたら申し訳ありませんが、この歌の歌詞が理事長の人生のように思えるのです、とコメントを付けて。

 裸一貫からスタートし、関西におけるその分野の専門学校界を引っ掻き回した男は、その日報の送信日から半年もしない内に息を引き取った。私は父をその5ヶ月前に亡くしていたが、その時より理事長を亡くした時の方が喪失感があった。この行為は私の一方的な押し付けだったかもしれないが、この歌を教えてあげられたことが嬉しいし、理事長の命の灯火が消える前に間に合わせられて良かったと心から思う。

-後記-
 思い出というものは不思議なものだ。あるものに触れた時、ふと当時の記憶が蘇ったりする。そんな「記憶再現ツール」の中でもかなり強力な一つが音楽だと思う。ある歌を聞いたらうんと昔に見た色や感覚まで思い出したりする。そして思い出には香りがある。
 親になると、子供には悲しい思い出はできる限り残さないようにしたいものだ。我が子が惨めな思いをしていたということを後で知った時ほど辛いものはない。我が校の生徒たちにも、在学中に触れた歌を後で聴いた時に、楽しい学生時代を思い出せたら嬉しいなぁ。