孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

お祭り、、、、か。

 わからない。

 

 どうしてもわからない。祭りというものが。祭りとは何か? 祭りを行う意味は? 理由は? 祭りの将来は?  私にはその全てが判然としない。そのような不確かと思えるものになぜ人々が狂乱するのか。 

 

 きっと祭りというものには一つ残らず由緒や起源があるのだろう。そしてその当時の人々が神に無事を、豊穣を、また怒りが鎮まるように という思いが凝縮し、それが一つの大きな意志となり始まったはずだ。きっと現代の我々が想像もつかないような血と汗と涙の起源だったのだと思う。それはいいのだが、、、でも今は? その目的のために実行しているといえるのだろうか? 見ていると 参加している人たちにとっては その祭りの起源などどうでもよく、祭りは祭りとして単体のイベントとして実行するものになっているように私には感じられる。誤解を恐れずいうなら、それを続けることが当たり前だと思ってる土地の人たちが、子供の頃から知っているスタイルを維持しながら 無批判に大騒ぎをしているだけのように思うのである。そしてそこで集団ヒステリーのような症状が起こる。全体が異常な興奮状態に陥り、もはや理屈は介在しなくなる。

 

 私の知人も祭りに魂をさらわれているそんな一人だ。毎年祭りが近づくと そわそわし始め、当日は命をかけるとまではいわないが、24時間中 かなりの割合を祭りに捧げる。その知人の周囲では、例えばその年の祭りのクライマックスには血が燃えたぎり、エンディングになると いいおっさんたちが涙を流し今年の健闘を称えあうというような現象が、毎年繰り返されるらしい。

 

 急な坂を丸太にまたがった男たちが滑り落ちる信州の祭りは「御柱祭」だったか、アレもすごい。神事であるはずの祭りでしばしば死人まで出ているけど、そんなことをものともせず廃止や中止にならずにいわゆる伝統を守るのだということで、連綿と受け継がれている。私は大阪住まいで 有名なだんじりの本場にも遠くはない。こんなことをいうと泉州地方が地元である人に絶対怒られるけど、やはりどうしてもあの熱狂の意味を理解できないのである。チキチンチキチンと鳴るカネや太鼓? 大工方と呼ばれる屋根の上の乗り手? 見ている観客は その中でもやり回しと呼ばれる、スピードに乗ったコーナリングに人気が集まる。地車が倒れないよう、しかもスピードは殺さないようにするには 絶妙な綱の引き方をはじめとして、指示を出す人と実行する人との呼吸がミソなのだそうだ。う〜ん、、、。殴られることを覚悟して言えば「だから?」としか思えない。きっと土地の人はその価値をわかっているから、街をあげての熱狂となる。その地域では学校も会社も休みになるもんね。そしてこのだんじりも死人が出る恐れのある祭りの一つだ。「いや 死人が出ても それは仕方ない、神事で死ぬなら本望だしそれは神に召されたのだ」というなら構わないんだけど、自分の家族が死んでも本当にそう思えるんだろうか? きっと違うんじゃないのか? いやそんな風には割り切れないと信じたいものだ。しかし工事現場で死亡事故なんか起こした日にゃあ、監督責任だわ管理不足だわと 下手すりゃ刑事責任を問われるのに、祭りに対しては甘い甘い。かえって参加する者たちは「死人まで出しているような勇壮な祭りに、誇りを胸に先祖代々臨んでいる俺たちカッコいい!」くらいに思っているのではないだろうか。

 

 余談ながら、あくまでその知人のいう事だが、祭りの期間は恋愛における男女の駆け引きにおいて男は攻撃力が高まり、女は貞操観念のハードルが低くなるという。下世話な話ながら、その知人の言葉をそのまま紹介するなら「ホンマ、俺の若い時は その3日間だけは、フリー〇ックスみたいなもんやったで!」みたいなことを はばかりもなくいう。ヤンキー特有の大幅な誇張はあるにせよ、イメージだけはわかる。だから祭りのときに告白したら、成功率は高いんだそうな。実は私の知ってる祭り関連でのこの手の話はもう一つある。ブラジルのリオのカーニバルを見に行った私の別の友人は、カーニバルの期間中 ふと目についたバーに入って店内を見渡しびっくりした。なんと何組もの男女が店内でコトをいたしてたという。しかも状況に驚いてすぐに店を出て、違う飲み屋に入り直しても同じ状況だった。まさに何もかもが「それ行け~!」という感じになって何でもアリになっているのだろう。血の気の多い男たちがその時の感情のほとばしりで ぶつかり合うので祭りではトラブルもつきものだが、そんなこともこの「それ行け状態」の一部だと思う。まさに集団ヒステリーだ。

 

 決して私は「熱くなる」とか「心が燃える」という状態がわからない人間ではないと自分自身思っているし知らない訳ではない。ましてや嫌っているものではない。むしろ大きなことを成し遂げるだめの最も大きなファクターは情熱だと思っているし、その熱量の大小がそのまま何かを動かす力の強さに比例するというのが 世の中の理であり、私の信じるところでもある。

 

 神仏に対してはこれまでの人生において、本心からすがることも少なくなかった。長らく信心している 奈良県にある神社に 年に2回、人間の身代わりとなってくれる形代のお祓いを作法に従ってお願いし、お札と茅の輪と呼ばれる 家庭用の小さな神具を買い求めてその都度飾り直し、古くなったものは同じ神社に感謝の気持ちで納めている。毎日ではないが、お札に向かい手を合わせる。特に祈りたいことが起きた時は静かにお札に向かって柏手を打ち 静かに首を垂れる。事の成就を、家族の無事を、病の快復を願って。私は同じ年代の中でもかなり信心深い方だと思う。しかし私は祭りは神事であると思っているので この先も 夜店をブラつくようなことはあるとしても、祭り人だけが大騒ぎしているように感じる現代の祭りに感動することもなければ参加することはないだろう。

 

 きっと私は変わり者なのだろう。でも 私と同じような考えを持っている人はいないものなのか?