孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

命の始末

 妻の病のことを語るには、2008年の秋まで遡らねばならない。パート先を退職、そのとき起きた、いくつかのこじれてわずらわしい人間関係を引き金に、妻は精神疾患を発症した。家事は何も出来なくなり、視野が狭くなって、常にイライラし、グズグズといつも泣いている。自分の存在価値は彼女の中では地に落ち、しょっちゅう死を口にした。家の中で首を吊る場所を探したり、リストカットをしたり、夜どおし近所を徘徊し、後ろを付いていく私が一睡もできないまま朝を迎えたこともあった。そんなことが以後1年半の内、散発的に繰り返された。私はその都度遅刻や欠勤,早退を余儀なくされた。そしてそのたびに何も効果的なことは出来ずオロオロしていた。

 自殺願望は根強く常に持っており、落ち込みが深い時は夜中頭がおかしくなったように、濡らしたトイレットペーパーを口いっぱいに詰め込んだり、私が帰宅するとゴミ袋を頭にすっぽり被り、首にガムテープをグルグル巻きにしていたこともあった。「消えてしまいたい」としょっちゅう口にした。ただ、今思えばその頃の妻は、本当の意味で死ぬ気ではなかったのだと思う。精神科の病院も転院を重ね 3つ目になり、回復の兆しは全く見えてこなかった。それが、2010年になり、状況はさらに深刻になった。彼女の口からは何一つ明るい言葉は発せられず、基本的に家事一切を行う私も、出口の見えないことによる 疲れを感じてきていた。人生に対する絶望が妻の頭を支配している日々。思えばこの どうにもならないような期間に、適切で有効な手立てが出来ていれば、もしかしたらこの後述べるようなことにはなら なかったのかもしれない。

 2010年5月10日いつもの時間より遅くなった帰り。子供たちはリビングでゲームをしていた。2年前から敷きっぱなしの布団にいつも横たわる家内が居ないことに気づき、私は我が家で「寝る部屋」と呼ぶ、寝具を置いている6畳に入ろうとして、ただならぬ気配を感じた。その部屋の扉の内側に、ケースで買い置きしている飲み物の箱を積んで、誰も中に入れないようにしてある。力を込めてやっと押し入り、窓際を見ると、そこには首と手を血に染め、横たわる妻がいた。カッターナイフで首を切り、自殺を図った信じられない姿。私は動揺しながら何度も妻の体を揺り動かした。
 数秒後、わずかに薄目を開けた妻は、その行いの前には、確実に命を絶てるものと信じていたようだ。ぼんやり見えるこの世界がこの世なのか、あの世なのか、すぐにはわからなかったようである。睡眠薬を大量に飲んでいるため、朦朧とした意識であったが、思いを果たせなかったことがわかると、大声で泣き出した。そして「なんで死なれへんの?」と言ってハラハラと涙をこぼす妻を前に、私は傷の手当こそしてあげられたが、彼女の心の支えになることはできず 妻と同じようにただ呆然としていた。以前は「家で私が死ぬと、子供がその姿を見つけてしまうから可哀想だ」と言っていたのだが、そんな言葉もその日は空しかった。


 いくばくかの空虚な時間がすぎ、やっと少し妻も落ち着きを一旦取り戻し、状況は収束したように思えた。しかしその日の夜中になって、再び妻の心に急な異変が訪れた。刃物、鋏、尖ったものを手当たり次第つかみ、腹やのどを突こうとする。30分程も凶器となるものの奪い合いをしただろうか。この騒ぎは彼女が自分自身の髪をハサミで虎刈りの坊主頭みたいになるまでめちゃくちゃに切って終わった。美容師である私は頭髪のことは良くわかっている。妻の髪は数ヶ月は修正のしようがない。絶望というのはこの時のような気持をいうのだろう。

 翌11日私は休みを取った。昨夜のことなどまるで他人のことだったように、妻は私のやることなすことにいちいち文句を言い、憎まれ口をきいた。一睡もしていない私は妻の横に座り、沈黙の中うつらうつらしている時でさえ、突如つぶやき始める彼女の言葉を聞き漏らして聞き返すと、彼女は「もういい」と言って機嫌を損ねた。横にいるだけで、丸一日言葉を交わさない不自然で長い時間。


 重苦しい時間を積み重ねたその日の夜、食事の準備をし、私と子供たちで食事を済ませた頃、妻のいる「寝る部屋」から「ぐぇっ」という異音が聞こえた。飛んで行くと、ベランダの外に着付け用の腰ひもに買い置きの米袋をくくりつけ、もう一方を輪にして自分の首にかけた妻が、白目をむいて、昨夜に続いて自ら命を断とうとしていた。10kgの米は一本の細いひもで吊るすと意外な程重く、引き上げるのにはかなりの力が必要だった。放心した妻は、しばらくの間激しく咳き込み、「なんで死なせてくれへんの?なんで助けるの?」と言って、力なくやはり泣いた。また「明日休んだらあかんよ。休むなら、私は本当に死ぬからね」と言って、私に欠勤をしないよう、睨み付けて忠告した。私も迂闊だった。この日の妻の行動は、何となく、私に「自分はこんなに苦しい」ということを見せるために、演技してるのではないか?とどこかで感じてしまっていたのである。また、この日の深夜に彼女が「ありがとう」と一言だけのメールを私に送ってきたことで、ようやく妻は気持の整理がつき、少しは落ち着いたものと勘違いしてしまった。浅はかにも私は、妻が本気で死ぬ気はこれでもうなくなったのだと、たかをくくってしまったのだ。


 今考えるとその一言だけのメールは、死ぬ気がなくなったのではなく、本気で死ぬ気になり、この世の生活と永遠に別れる整理がついた結果だったのである。妻の心の中の現実をわかることができなかった自分の馬鹿さに嫌気がさすが、翌12日、私は朝から通常出勤をした。しかし、その日の昼前、最悪な連絡が妻からメールで入った。「やはり生きているのは辛いので、今度こそしくじらないよう永眠します……。」


 私は動転した。理事長にその旨報告し、早退を申し出た。理事長は半ば怒っており「早く行ってやれ!」と顔をしかめた。なんで夫たるお前が、嫁さんのSOSを感じてやれないのか?という思いだったのではないかと思う。

 どうすれば妻が息絶える前に帰宅できるか? 出した答えは、妻が普段一番信頼していると思える、友人のTさんに家に走ってもらうこと。ただし、当然鍵を持ってはいないため、小学校に通う息子の学校に連絡し、鍵を持ってこさせる。しかし子供には家には入ってほしくなかった。もしTさんと2人で家に入り、妻が悲しい姿でそこにいたら……。子供には絶対それは見せたくない。私自身が小学生のときに、私の母が図った自殺未遂は、私の心に今も消えない傷を残している。10歳だった私には、その時は母がいなくなる悲しさより、見捨てられたという気持が強かった。あの時感じた悲しさは、きっと私の中で一生消えない。そしてそんな思いは自分の子供にはしてほしくない。

 帰宅までの道中、Tさんからはなかなか連絡が来なかった。自宅のある最寄り駅を降りて、歩いて10分もかからない道程をタクシーに乗り込んだところでやっと携帯が鳴った。その瞬間、私は祈った。「悲しい報告じゃないように!」電話の向こうのTさんの声は「大丈夫でしたよ。お風呂にいました」。とっさに何か伏せていることが口調からわかった。妻が真横にいるので当然である。


 家に着き、玄関を入ってすぐ右の「寝る部屋」には、悲しい笑みを浮かべたTさんと、その横に手首にタオルを巻き、例のごとく放心した妻がいた。Tさんにお礼を言い、妻の顔をじっと見た。「間に合った」と思いはしたが、私にはもう、彼女の人生に何一つ前向きな要素を見いだすことはできなかった。命を救ってくれたTさんだったが、お礼を述べ、すぐに帰っていただいた。妻と2人の時間が流れた。妻は何も話さず、ただ中空を見ていた。私はここ数日に起きたことをぼんやりと振り返り、(仕事は辞めよう)と覚悟した。妻が発病してから、職場では何度も業務上、また勤怠上で周囲に迷惑をかけ続けてきたが、私が不在の時も部下たちはチームで乗り切ってきた。今更私がいなくなっても大きな穴は開かないだろうと思った。

 妻の左手首には、深さ1センチ近く、長さが5センチ位の深く切った傷が口を開けていた。私は昨年2月から通院している病院の精神科医に電話をかけた。最後の望みをかけすがろうとしたのである。正確には、その精神科医に、大きな病院を紹介してもらうためだった。その日、子供の帰りを待って妻を見張らせ、紹介状をもらいに担当医師を訪ね、その日もまんじりともしない夜を妻の横で過ごした。

 5月13日、初めてその病院の門をくぐった時には、周囲 にいる色々なタイプの明らかに精神を病んでいる人々を多数見た戸惑いで、息苦しい程の緊張とどうしようもないあきらめに身が震えていた。診察の間中、妻は まるで私を毛嫌いしているかのように いかにいたらない夫であるかを担当医師2名に訴え続けた。妻の症状は、自殺願望が強いため、猶予も無く医師に緊急措置入院を告げられた。診察が終わり、駐車場に向かう道で妻は私の背中や肩を力を込めて何度も殴った。私はそれに抵抗する気もなく、ただ殴られた。失意のままあわただしく一旦帰宅し、入院の準備をした後、再びこの後しばらく妻の住まいとなる病院に戻る計画だったが、正直ここで妻に入院を拒まれていれば、妻の病状は回復することなく一家もろとも崩れていくことになったかもしれない。しかしその後妻は、入院することには全く抵抗しなかった。今でも不思議に思う。それ程自分でもこのままではだめになってしまう、と覚悟を決めていたのかもしれない。

 妻と私は 夢も希望も持てない気持のまま、担当看護師と共に入院病棟に向かった。閉鎖病棟の入口にある2枚の扉の厳重な施錠に、妻は「これで世間と閉ざされた」と言って涙を流した。身の回りの持ち物は、紙一枚といえども許されないという内容の説明を聞き 案内された個室は、棚をはじめ一切の収納のための設備や備品類が存在しない、テレビで見たことのある刑務所のような空間だった。また24時間モニターで監視されており、室内のトイレでさえ視界を遮る壁もない、人として、特に女性にとっては屈辱的な病室である。音声もマイクで集音され、ナースステーションにライブで送られるためナースコールさえ不要であり存在しない。その部屋を見たときにも妻は悲しそうに涙を流した。

 妻の病状は、このような部屋に監禁されるところまでに至っている。このことは妻本人はもちろん、私自身も受け入れなければならないことであった。「今はここがお前には必要な場所なのだから、受け入れろ」という主旨のことをやっと諭し、何もない部屋で妻と私は、何もしゃべらない時間を過ごした。壁に接したベッドで、妻は壁側に向いて横になった。私は背を向けられながら座る。ふと顔を覗き込むと妻の目から涙が静かに一筋流れていた。しばらく経って初めての食事が運ばれてきた。いらないと言う妻であったが、私と一緒の時にしか食べないかもしれないと思い、「一口だけでも」と何とかなだめて 背中を支え座らせて食事をとらせた。頭を切り傷だらけにしながら虎刈りの坊主になった妻は、それを隠すために家にあったニット帽をかぶっている。あれほど食べることや美味しいものに興味があった妻は、焦点の合わない目でただゆっくりと 食べるものを口に運び、飲み込むという作業をしている。 


 子供たちの食事の用意があるので、思いを残したまま病院を後にし1人 車で帰宅する私は、これでよかったのだろうか? と自問し、涙で視界がかすんだ。今後毎日 むき出しの便器で用を足し、その便器の横で、学校給食に使うような食器に盛られ、冷めた病院食を誰としゃべることもなく 一人食べる食事とはどんな味がするのだろう? まさしく悪夢である。

 妻が自ら命を絶とうとしたことは、今まで何度かあった。でも本気で死のうとしたのは、もしかしたら今回が初めてだったかもしれない。9Fのベランダから飛び降りようとして、家族全員でしがみついて止めた時も、本当は止めてくれるのが前提で飛び降りる構えをしていたのかも知れないと思う。その時は、救急車を呼ぼうとして片手で妻をつかみながら片手で救急に電話をした。しかし、日本の精神医療は融通が全くきかない。救急車は、外科などの病状のときのように、ただ呼んでも来ない。本人の性格、家族構成や精神科への通院歴、発病から死ぬ気になるまでの経緯、等々が微に入り細に渡り明らかにならなければ出動しない。「とにかく、鎮静剤だけでもすぐに打ってほしい」そんな悲痛な家族からの言葉も無駄であった。結局この日は電話の相手に、ひどい罵声を浴びせ、受話器をたたきつけることになった。

 入院生活は、味気ないものである。施錠された個室にいる妻は、当然と言えば当然だか、誰にも話しかけず、話しかけられず、自分1人がこの病院に入院しているかのような感覚であった。入院したのは木曜だったが、その日と翌金曜日、私は休暇を取り、面会が許される時間まで、個室に妻と2人で時間を過ごした。私は、たまに来る看護士の無神経さや、医師の言葉に腹が立ち、文句をいい悪態をついた。妻が悲しくなるようなことはどうしても避けたかった。妻にとって人間としての尊厳を維持するためのギリギリの戦いだったの かもしれない。

 妻は食事時間以外のほとんどの時間をベッドに横たわって目をつぶり、存在をまるで消し去るつもりであるかのように過ごした。たまに口を開くと、病院側の姿勢に不満そうだった。少なくとも翌週の火曜日までは彼女の口から 入院して良かったという意味の言葉は、発せられることは無かった。また蚊の鳴くような小さな声で突然話し出すため、何を言っているのかがわからず、聞き返すことも多かったが、そんなときは私を睨みつけるように「私は今、こんな状態なのだから、何度も同じことを言わせないで」といって怒り、そして泣いた。

 医師からは、毎日家族の誰か(私しかいないが)が顔を見せてくれると、治療効果も期待できる、とは言われていたが、翌週の月曜日からは申請した休暇願は承認されず、妻の病院には早退して見舞いに行くことになった。しかし自分の為に私が欠勤をすることで家計を圧迫することを、妻は大変嫌がった。故に医師にも相談し、19日の水曜日から私は通常通り出社した。気が気でなかった。一日中 生気の無い姿で過ごしているような状態の妻を病院に1人残し、1日の業務を行うには少なからず精神力が必要だった。

 入院翌週に保護室から出て、4人部屋に移った妻は、毎日の回診の度に涙ながらにではあるが、それでも序々に医師に自分の胸の内を言えるようになっていった。何もかもだめ、自分は不要でどうでもいい、というのが妻の基本的な様子であると見ていて感じていたが、主治医には何かを話せているようであった。相変わらず表情はなく、私が横にいるときも、ボーッと遠くを見ていた。

 毎週病院に妻の見舞いに行く。院内の妻以外の入院患者は、一目見て精神病であるのが明らかな人と、そうでない人が混在している。当前ながら、この人たちの病気は様々で、妻のような双極性障害もあり、うつ病統合失調症、男性恐怖症、パニック障害家庭内暴力によるPTSDなどなど、話を聞くだけで目が回りそうである。ある日、妻が入院直後に数日を過ごした保護室に、男性患者が緊急入院してきた。暴れるので拘束され、途切れない叫び声や怒声、罵声が廊下にまで響き渡っており、私が滞在した数時間、ずっとそれが続いた。


 拘束の可能性については妻にもありえるということは、入院する際に看護士から聞いてはいたが、そんな場面には初めて接した。平素通常の文化生活を営んでいる大多数の人々にとっては、非日常ここに極まるという感覚であろうと思われる。入院しているとは言え、他人とは接する。当然ストレスもある。それが落ち込む原因となる。そんな小さなハードルを序々に超えていく、というのが毎日のカウンセリングに加えた治療の方針らしい。1ヶ月を過ぎたあたりから、同時に作業療法心理療法がプログラムされた。システマティックな治療工程である。

 後日、何気なく「寝る部屋」の箪笥の引き出しの中を見たときに、あの日米袋を結んだ着付け用の腰ひもを見つけた。妻の目に触れないよう、高い場所に隠していたものである。結ばれ、つながれた腰紐は3メートル程にもなっていたであろうか。ほどこうとしたが、予想をはるかに超え、全く解くことができない。そのときの妻の心を表したかのように固く固くしめられ、解こうとする者を拒み、糸口さえつかめない。結局ラジオペンチ2本を両手に持って挑むことになった。全てを解くのに30分程かかったように思う。必死になって作業をしていたので気づかなかったが、私の横では、既に寝ていたと思っていた下の子供が、横になったまま布団の中で涙を浮かべて、ことの一部始終を見ていた。誰知らず私一人で作業をしていたと思っていたのに、多感な子供に見られていたのは迂闊であった。息子は私に背を向け、しばらくして眠りにはついたが、負の思い出を作ってしまった。今でも悔やんでいる。