孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

ノーマライゼイション

 以前介護の資格を取った時、QORという価値観を教わった。生活の質ということらしく、ハンデのある人も健常者と同じクオリティの生活を送ることが「当たり前=ノーマライゼイション」だという。これを聞いて私は当初素晴らしいと思ったのだが、同時に間違えて理解する人も多いだろうな、と思った記憶がある。なぜなら目に見える動きとしては、障害のある人は健常者と同じようににできるはずなどないからだ。

 妻は先天的な心臓の障害、併せて精神障害を国から認定されてはいるが、見た目には健常者と変わらない。若い頃はメイクアップ関係の仕事をしていたこともあって派手好きだ(笑) だから車椅子を使わず外に出る時には同年代の女性と比較するとむしろ障害者であることが余計にわからない。そんな妻はほとんど外出しないのだが、極たまに気が向いて一歩外に出れば、障害者にとっては戦いでもある。苦労もあるがこの苦労は仕方ないだろう。なぜなら障害が厳然とあるのだから。障害があって周りの人たちとは違うのだから。この違いについては決して埋め合わせられるものではない。

 私の家の近くには大きな公園があって、近所の子供達がワーワーはしゃぐ声が毎日聞こえる。ウチの子が小さい時もよその子と同じくその中にあったが、ある日ふと見かけた風景について紹介したい。ウチの子と同い年の友達にダウン症の子がいるのだが、他の子と同じようにはできないことも多いし、何回説明してもなかなか理解しない子だった。追いかけ合いみたいな遊びをしていたあるガキが言った。「◯◯(ダウン症の子の名前)は走ったら危ないからな、こいつがオニの時は俺らはケンケンで逃げるんやで!」と言ってその追いかけ合いは始まった。私はその子供たちを見ていたのだが、そのルールでも残念ながら上手くいかなかった。ケンケンで逃げるガキどもがフェイクをかけると、◯◯君は捕まえられない。その状態が続いてオニが◯◯であるまま交代できなくなりかけた時、さっきルールを仕切ったガキが再び口を開いた。「◯◯がオニの時はダマシン(フェイク)無しや!」。名案だ!と私は心で手を打った。他の子らは「えー!?」とはいったものの、しゃーないものと納得してゲームが再開されたのだ。
 そう、子供たちはダウン症の◯◯を「オニにしない」という選択をしなかったのだ。彼をその仲間の輪から外さなかったのである。これこそノーマライゼイションの精神だ。もし我々大人がその遊びに加わっていたらどうだろう?きっとそのダウン症の◯◯はベンチに座らせておくか、オニにはならないようにするんじゃないだろうか。

 障害者が悲しく辛いのは、健常者と同じことができないということではなく「あなたは特別待遇するべき人で、優先しないといけない」という姿勢で対応してくれようとする価値観だ。それはノーマライゼイションの精神には程遠く、時に蔑視に近い。欲しい時にだけ頼りやがって!というそしりは受けるかもしれないが、どうか精神的には同列だと思って欲しい。特別視はしないでくれ。「優先座席」などは老人や障害者を頭から特別視する価値観の権化だ。ある知り合い(障害者)が呟いていたが、◯ン・キホーテのアダルトコーナーに車椅子に乗った自分が居ると、のれん(あるだろ?)をくぐって入ってくる人からは、必ず奇異な目で見られるというのだ。障害者がアダルトコーナーに居たら健常者は違和感を感じるらしい。障害者なのにエッチなことが好きなの?へぇ!ってとこかな。これを蔑視と言わずして何と表現しようか。