孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

結婚のお試し期間

 最近結婚式に出席することが多く、昨年の秋から5件の結婚式に参列している。しかし私は結婚式に参列すると、疲れてグッタリすることが多い。きっと披露宴の間中 司会者から発せられる 「幸せ」という言葉を繰り返し聞かされることが原因である。一体今の日本の結婚式中、司会者は「幸せ」というワードを平均何回位発するのだろう? その他にも「一生に一度」や「運命の赤い糸」また「奇跡の出会い」なんかの 歯の浮くような幸せワードのオンパレードだ。誰もが 結婚式というものはそんなものだ と思っているから そこに異論を唱える人もいないし、当然笑いも怒りも起こらない。しかし私はこの 幸せというものを安っぽく扱われている価値観に引っかかる。というか、大好きな人と一緒になれるということを単純に幸せだって言いきってしまっていいものだろうか? 私はあの晴れがましいセレモニーの雰囲気の中で、「もうわかったよ!」とイライラしながら長い拘束時間を過ごしている気がする。

 

 まぁ今は結婚する、といっても花嫁の処女性(花婿の童貞性)を重要視することもなく、婚前交渉などという言葉も死語となった。男性に体を許すことを「全てを捧げた」とか「何もかもあげた」いう表現をしても、若い人には昔の女性のそんな覚悟がわからない。花嫁が両親に対し、これまで育ててくれて有難うございましたっていう手紙を読むことが、披露宴の感動的なクライマックスとして定番だが、女性は生まれ育った家を捨てて夫側の家の人となり、もう帰れない という感覚はないだろうし、結婚後もいつでも実家に帰って食事をし、子供でも生まれたならジジババに孫を見てもらって自分は仕事や用事をするのである。だから全くもって「お別れ」ではないのだ。セレモニーとして花束をあげる本人も、もらう親も、それを見ている参列者も、感動せよという呪縛に思考停止になっているだけだ。 誤解なきよう断っておくが、私は嫌味をいうつもりで結婚式に出ているのではなく、心からお祝いの気持ちを伝えたいということでは 他の参列者と何ら変わるところではない。

 

 さてそれでは「幸せ」というものは一体何だろうか。どうであれば、またどう感じるならば「幸せ」ということなのだろう。「お幸せに!」という言葉はどうなることを願ってるんだ? 結婚式に参列するたびに自分自身迷宮の中に入る。世の中には、結婚式で 両親をはじめ 多くの人々の前で一生の誓いをしたにもかかわらず、あっさりとその約束を破るような人たちもいる。それを人は「幸せになり損ねた」と評する。しかし思うに この場合の幸せとは、あくまで自分の気持ちの充実や満足のことを指しているような気がするのである。「幸せ」とはカップルや夫婦が仲良く暮らすことなのだろうか? 優しくされる、大事にされることなのだろうか? 反対に伴侶が家庭をかえりみない、とか浮気をした結果、自分が辛い思いをすることが「不幸せ」ということなのだろうか? それは違うと思う。幸せというものは、自分を幸せにしてくれる人の力で成り立つ状態なのではなく、自分が幸せにしたい誰かがいるということ、そしてそのために必死に頑張って生きる状態なのだと思う。back numberの名曲「瞬き」にも朗々と謳われているではないか。

 

“幸せとは 星の降る夜と眩しい朝が 繰り返すものじゃなく 大切な人に降りかかった雨に傘をさせることだ”

 

 一生の約束をしたのに、いとも簡単に気持ちが冷めて好きではなくなったり 別居したり、果ては離婚したり、、、。どうしてこんなことになるのかを考えてその対策を考えるより、私はお試し期間を作ればいいと思っている。当然契約書を交わした上でだ。前述のとおり処女性や ましてや童貞性は求められていない。2人で作る期間限定の仮の家庭を体験する中で、相性その他がピッタリならば正式に結婚すればよい。期間は3か月~半年位がベストなのではないか? 期間が満了しても双方のいずれかが まだ十分な確信が持てない というのであれば、期間延長もアリだ。どうして結婚だけに「あと後戻りできない」縛りを作ってしまうのか?

 

 ペンの試し書き、洋服の試着、車の試乗なんかは「モノ」だが、実はもっとマッチングが難しいのが「人」である。「人」こそ試さないといけないと思う。今は時代が変わり、実家が身近になったことは前述の通りだが、まだまだ結婚のやり直しには高いハードルがあるではないか。一生 という価値が付きまとうではないか。お試し期間を経験したといっても、結婚相手としての価値を下げるとは思えないし、大変合理的かつ実用性に富むと思うのだが、いかがだろう?