孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

映え?

 私にとっては理解の範疇を超えているのだが、世の中にはどうも スマホが無いと生きていけないという症状を抱えている人がいる。歩きながら、カフェで、テレビを観ているのに、またひどい時には車の運転中であっても とにかくわずかな時間もその機械を手放せなくなるところまでくると重症だ。デート中と思しきカップルであってもそれぞれがスマホを操作しているし、電車内では老人と寝ている人を除けば半数以上の中毒者が小さな画面とにらめっこしているんじゃないだろうか?ぎゅうぎゅう詰めの満員なのに片手を頭上に上げて必死に操作する姿を見ると、「そうまでして見たいか⁉」と思わず笑ってしまう。スマホ中毒者が発生する現状には色々な要因があるんだろうけど、まず友人とのメッセージのやり取りが気になって四六時中スマホをチェックしておかないといけないという若い世代独特の考え方がある。自分は 仲間に対して思いやりに溢れた人物でないとダメで、その変な価値観のせいで仲間からのメッセージには直ちに反応しないといけないし、仲間を批判するなんぞもってのほかである(笑) そんな「ガラスの人間関係」の中にいることがスマホを手放せない最も大きな要因だと思う。その他、携帯ゲームやマンガ、あるいは動画視聴なんかが、ボディブローのように人をズルズルと スマホ中毒に引き込んでいく。また そのような確固たる(?)目的がなくても 暇つぶしで 様々なサイトを取りとめもなく見るのが好きな人がなんと多いことだろう。

 しかし若者をスマホに縛り付ける強力で新しい潮流、それはSNSである。ずっと以前から自分の日常を紹介する「公開日記」に近い手段として存在してはいたものの、近年その世界は大きく広がりを見せ、とにかく自慢したいオヤジたちのための Facebook、他人に対する文句を言いたい若者たちのための Twitter が それぞれに世界レベルで利用者数を伸ばしてきた。その結果多くの人がソーシャルネットワーク上に自分の居場所を持っているし、どの企業もこの拡散力を広報上の重要ツールとして使っている。いわゆるインフルエンサーってやつだ。今やテレビCMに代わってSNSが集客や販促の主役であるとは言い過ぎだろうか?

 さらにここ数年は別のSNS勢力が台頭してきた。アップロードする人とそれを見る人を繋ぐツールが、それまでの「文章」から「写真」に取って代わった Instagram である。写真がメインであることで、美味しそうなパフェやきれいな夜景、洒落たファッションなんかの写真(俗にいう「映える」というヤツだ)を「見てちょーだい!」とネット上に 一人のかまってちゃんが投下する。そんなかまってちゃんの承認欲求を、これまた大勢のヒマ人が「いいね!」といって満たしてあげるという、かまい・かまわれの連鎖が果てしなく続く なんともアホらしくも生産性のない行為が大流行している(言ってしまった!)。

 どうしてそんなに他人に認めてほしいのか?どうしてそんなに羨ましがられたいのか?美味いものを食ったりきれいなデザートを楽しむのは勝手にしたらいいけど、それを社会に向けて自慢したり その自慢を称賛したりする価値が、私には一般相対性理論を理解できない以上に理解できない。メシくらい勝手に黙って食えよ!!

 良かった。心からそう思う。私はスマホが無くても道を歩けるし電車にも乗れる。美味しそうなパフェはまず食べないけど、見事な活けづくりを見ても、豪華なフルーツ盛り合わせが目の前に出てきたとしても、写真を撮ってからでないと食べられない訳じゃないし、何より車をスマホを見ないで運転する技能を持っている。本当に良かった。神に感謝だ。