孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

大好きです

好きという感情はある意味最強である。あらゆるものを凌駕する。金も時間も距離も嫌なことさえも。

好きな人のためなら金は惜しくない。好きな女の子のために分不相応の高いプレゼントを、敷居の高い店で若い男の子が緊張の中買い求める。この時の金額は、いくらであっても高くない。その男の子が食べるものが向こう1ヶ月カップラーメンだったとしてもだ。そんなことはどうでもいい。あの女の子が喜んでくれれば。

好きな人のためなら時間も惜しくない。今日部屋に来てくれる人のために作るご飯は、クックパッドを見ながら一生懸命作れる。その人の美味しいと言ってくれる一言は、手間も時間も苦労さえも消し去る。いや、そもそも苦労などではない。

好きな人のためなら距離など意味はない。会えない時間に胸を焦がし続ける。その人に何とかして会いたい。何としてでも会いたい。それが何百キロ離れていようが、何十時間かかろうが。離れているから余計に思いが募る。何故なら好きだからだ。それ以外に理由などない。

好きな人のためなら嫌なことにも耐えられる。どんなに嫌な仕事でも、好きな人と一緒に働けるなら我慢できる。嫌味な上司にもお局様にも心の中は怒りに燃えてもそんなことは目的のためならどうでもよくなる。悪口陰口。好きな人の顔を思うと我慢もできる。

でもこれらは所詮「好き」が水平レベルでしかなく、対象が自分と同じ高さでの話だ。そのステージが一段階上がれば、好きな人が結婚相手になるんだと思う。「好き」のレベルが手の届く領域を超えて、ついには親より大切な対象になること、それが結婚というものなのではないか。

しかし、、、。
結婚相手が見つかったとしても、それは所詮「好き」レベルが親より一段階上がっただけの話だ。いわば「大好き」レベルなだけだ。まだその上がある。
それは自分に子どもが生まれたらわかる。子供ができるということは、親はおろか、自分自身より大切なものができるということだ。自分の身を引き換えにしてでも守りたいものができるということだ。
カッコ良すぎるかい(笑)?

《好き•大切 の法則》
好きな人 く 親 く 配偶者 く 自分 く 子供