孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

差別というもの

 人間は差をつけたがる生き物である。いや、人間だけじゃないんだろう。生きていれば自然と序列ができる。「あいつより私の方が可愛い」とか「あの人は私より金持ちだ」とか「コイツより俺の方が社会的には下だ」とか、、、。しかしうがった見方かもしれないが、その上下の序列は 余計な争いやトラブルを避けることができることにより、人間関係がスムーズにいくために 神が与え給うた仕組なのかもしれない。

 

  “ROOTS” というテレビドラマが一世を風靡したのはもう40年も前のことだろうか。当時の私は、ヨーロッパの白人やその手下が、アフリカに住む黒人を狩り、あろうことか商品として別の土地で奴隷売買を行ったことに 言い知れぬ憎悪の感情を持ったものだ。今でもその思いは変わらないし、非人道的な所業 ここに極まれりといったところである。いまだにKKKなどという白人至上主義の組織が存在するあたりにも 今のアメリカが抱える人種問題の根深さを感じざるを得ない。

 

 世にレイシストの称号を付与された人物も少なくはないし、表面上は出ていなくとも、人の内面には色々な差別が無意識に存在することは間違いのないことだと思うけど、最も私が理解できないのは、黒人(有色人種)差別である。しばしば耳にするのが、アメリカでしばしば問題になって デモなんかが起きてしまう 白人警官による黒人への暴行である。あの類いのニュースを見ていると、確かに人が人を殴り、蹴り、目を背けたくなる酷い暴力だったりする。  

 

 しかし 対象を入れ替えるとどうなるか。白人警察が白人を殴る時、また黒人警察が黒人を殴る時、さらに黒人警察が白人を殴る時には このような人種問題にならないのはなぜか?きっとそのような事件も数えきれないほどあるはずなのに である。白人が黒人に対して暴行をはたらいた時のみ社会が反応し、人種差別だ!と叫ぶことに無理はないのだろうか。

 

 過去においては黒人をモチーフにしたマネキンにもクレームがついて、回収騒ぎにもなった。テレビではひょうきん族島崎俊郎が、アダモステと称する黒人(原住民?)の扮装で叩かれたし、ごく最近もダウンタウン浜田雅功が番組内のキャラクターとして顔を黒塗りしたら、ネットが差別だといって大騒ぎだ。品のない冗談には違いないが、どうして黒人を模した描写をしたら差別になるんだろうか?私は非人道的な黒人の苦難の歴史を憎む気持ちは人一倍あるつもりだが、顔を黒く塗ることを短絡的に黒人差別だとは思えないのだ。それを差別だと感じるのが普通の感覚だとしたら、逆に白く塗ったら白人差別のはずなのにそこを問われた事実を私は知らない。日本においては歌舞伎の白塗り、志村けんのバカ殿、祇園の舞妓や芸妓など。もちろん私はそれらに何か差別を感じさせるような問題があるとは微塵も思わないし、そうであるはずもない。とにかく世間で騒がれるのは黒塗りの時だけなのである。

 

 障がい者しかり、病気で不自由な生活を余儀なくされている人しかり、またLGBTだって同じだろうが、黒人はなにも自分たちを他の人種より優位に置きたいわけではないだろう。自分たちを特別扱いしてほしい訳ではなく、他の人たちと同じ扱いをしてほしいだけだと思うし、そうでなければノーマライゼーションの精神とはかけ離れる。逆差別にもつながりかねない。私の妻は障がい者である上に難治性の精神疾患(一生付き合う気である)を抱えているが、本心からこう思える。

 「特別ではなく普通に扱ってほしい」と。