孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

母のこと

母の死期が近づいている、と木更津に住む兄から連絡があった。複数の臓器の機能が落ちており、今日明日ではないものの、そろそろ覚悟をしておいた方が良いと医師から言われたとのこと。ああ。彼女との思い出は悲しいものが多い。古い話になるが、私が小学校3年生までは、私たちは田舎から出てきた普通の家族だった。勤めている会社の金を父が使い込んだことが発覚してからは、母と兄と私は文字通り路頭に迷うことになった。しかし守ってくれるはずの母は、私たちを残してパート先の同僚である若い男と逃げた。私は12歳、中学に入学した年だった。とどのつまり、母は逃避行の果てに服薬での自殺を図り、収容された病院から連絡があったのは、母が居なくなってから2,3週間も経った後だった。懇意にしている近所のおばさんから1万円借り、私たち兄弟は先に行った父を追いかけて広島まで母に会いに行った。病院のベッドに横たわる母を前に、私はどんな顔をしたらいいのかわからなかった。間に合わないかもしれないと言われた母に生きている内に会えた嬉しさと、捨てられたと思う気持ちがゴチャゴチャになって、私は意識が戻らず口を開けたままの母の横で立ちすくみ、後から後から涙がポロポロとこぼれた。その後1ヶ月も経った頃、先に帰った私たち兄弟に、病院に残った父から母の意識が戻ったと連絡があった。そして「お前たちはどうする?母さんを受け入れるか?」と父は力なく尋ねた。

現在母は兄の元で人生の最後の瞬間を待つだけになっている。あの日、父にまた母と暮らしたいとは答えたが、悲しいことに私はやはりどこかで今でも母を許していないのかもしれない。人の一生などあっという間だ。人は何のために生きているのか?なんて考えるのはおこがましいという考え方には大賛成だし、誰かのために、また誰かの役に立つために生きたい。感謝などされなくてもいいから、私の行いの何かが誰かのためになってくれれば嬉しい。私が死ぬときには、誰かの幸せに寄与できたと振り返り旅立ちたいものだ。かといってまだまだ死ぬ気はないし妻より先に死ぬわけにはいかないが、これまでの私の人生は良き伴侶と子供たち、そして良い仕事と同僚に恵まれた。これ以上のことがあろうか。

どう死にたいかはどう生きたいかであるし、どう生きたいかはどう死にたいかである。