孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

言葉の変遷

言葉は変わる。つい数十年前までは日常使っていた言葉もなんだか古臭くなり、私自身は美しい大和言葉だと思っている よしんば、あまつさえ、たゆたうなどという言葉も、もう古い文章の中でしか見つけられない。「ろうたけた」なんていう気品に満ちた評価を喜んでくれる女性が今、いかほどいるのだろう。

言葉は変わる。そんな中ある言葉の持つ意味について、不勉強のためこれまで知らなかったことがある。それは「とても」という副詞の意味についてである。我々はこの言葉を通常「すごく」とか「大変に」みたいに、程度が甚だしい時の表現に使っている。そしてもう一つの意味は、否定の意味を強調するための言葉としてである。例えば目の前に沢山の食べ物を用意された時に「とてもこんなには食べられない」の「とても」だ。私が驚いたのは元来後者の意味しか無く「すごく」「大変に」の意味で使われ出したのは最近のことだということにである。ある文豪が「最近は、『とても』を程度の大きさを表す語句として使われているのを知って驚いた」という旨を文章に残している。

言葉は変わる。発音についてもしかり。旧仮名遣いの「てふてふ(蝶々)」のような言葉は、当初は書かれた通りに発音していたというではないか。人々が使っているうちに段々と記載とは違う発音になっていったのだという。ものの名前も変わる。「めだか」という単語は、平安時代には「ツァツァラメザコウ」といった。金田一春彦氏によると、平安時代にはタ行やハ行も、今の発音の仕方ではなかったらしい。

言葉は変わる。今使っている言葉もどんどん過去の言葉になり、我々の次の世でもこれまでの歴史と同じく、日常語の多くが古臭い言葉になり、やがて消えていく。最新の言葉が京の都を中心に波紋のように地方に広がっていき、その拡散の間に次の新しい言葉がまた京で生まれ、次の波紋が起きる、という全国アホ・バカ分布図という名著もあったが、流行り言葉はどんどん上書きされていくのが世の理である。日本語を話す者同士であるにもかかわらず、現代人は室町時代以前の人とはまともには話ができないらしい。ましてや奈良時代ともなると意思の疎通などできるわけはない。いわゆる「誤用」も、時間の経過によって誤りではなくなる道理だ。「日本人の多くが間違って理解している!」なんて鬼の首を取ったように、したり顔でのたまうマナー講師などには「だからどうした?」と言ってやりたい。