孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

I was born to love you.

❝ I was born to love you ❞ 
❝ I was born to take care of you❞


 人間は何のために生まれてきたのか? とか なぜ生きるのかと考える人は大昔からいたようだ。「なぜ生きる」という本がベストセラーになっているところを見ると、どうも現代においても これに頭を悩ませる人が多いのは間違いない。人はなぜ生きるのか? という疑問に対して、およそ10年前までの私の到達点は「意味などない」であった。人はただ生まれ ただ生き ただ死んでいく。全ては運命のままこだわらずに。どこかの哲学者が偉そうに講釈をたれているような理屈だが、それまでの私はそれが真理だと思いたがっていた。私は 達観したい という理想を持ちながら、そこそこいい年になるまで安っぽい俗に埋もれ 一人でイキがりながら海抜ゼロメートルをのたうち回っていたのだと思う。
 QUEENのボーカリストフレディ・マーキュリーの歌声は、今でも私の耳には新鮮なままだ。でも I was born to ~ だと、~のために生まれてきたという かなり運命的な感じにもなるんだけど、私自身 最近の約10年はそれに近い感覚を持ってるなと思ってる。


 さて。人間は何のために生きるのだろう。何を成せば生まれてきた甲斐があるというのだろうか。いやそもそも その「甲斐」というものが無きゃダメなのか? 生まれてきた意味や生きている価値を持たないと生きちゃいけないのか? 生物学や動物学の観点から見れば、生き物の最大の存在理由は次の世代に種を繋ぐということになるだろうか。しかしそれなら子供を産み終えた人間は不要ではないか。人の寿命の後半の日々は無駄なのか、、、? いや、そんなはずはない。種の保存こそ生物が存在する最も根源的な理由ならば、産むこと以外に 少なくとも育てるという行為も不可欠になる。人間の子供は産み落としただけではダメなようになっているからである。


 話を本題に戻そう。私が四十の坂を下り、五十の声が聞こえ始めた頃に妻の身に降りかかった病は、私の死生観を根底から変えた。孔子は五十にして天命を知ると教える。自分の生涯における使命を見極めたということだと解釈している。孔子という人には会ったことはないし、彼が弟子に語りたかったことは違う意味なのかもしれないが、私は自分の生きる意味を、妻が病気にかかったことで見つけ出すことができた。奇しくも論語に示された年齢とほぼ同時期に。


 妻は生まれ持っての身体の障害に加え、心の病を発症した。その症状は彼女が親からもらった生命を 幾度かに渡り自らの手で終わらせようとする程の破壊力を持っていた。結婚して20年以上経っていた私たちに 初めて訪れた得体の知れない悪魔である。そいつは残酷にも彼女の人格を大きく変えてしまった。主症状である 感情の目まぐるしい上下動が日常的に起きる。症状が激しい時には、死にたいとグズグズと泣き明かした翌日に ロックミュージシャンのライブに行くと言ってきかなかったり、かかってきた電話の相手に無茶な論理を振りかざし 大声で罵声を浴びせるようなこともあった。一度などは子供の学校の英語教師に、課外授業の目玉で「外国人に話しかけよう」という会話の例文にかみついたこともある。英語など1ミリも話せないのにである。
 真っ暗の部屋に職場から帰宅した私が灯りをつけた時、家の中が妻の手でめちゃくちゃになっているようなことがしばしば起きた。そしてそんな日には きまってODと呼ばれる向精神薬の大量服用をし、朦朧とした意識の中で 自分が存在している意味が見つけられずに泣いていた。夫である私は 急な欠勤や遅刻 早退を発病以後約2年間繰り返し、結局踏ん張りきれず 職場を去らざるを得なくなった。家事全般に加えて妻の介護を行うことで、慢性的な疲労と睡眠不足による蓄積疲労が頂点に達していた私自身を守るためではあったが、どうしてもこの仕事は辞めたくなかったので まさに断腸の思いだった。


 実際に精神疾患に苦しむ人は少なくない。しかし昔はそんな考えや判断はなく、気がふれたとか 狂った と位置付けられた。素人の考えながら、過去にそう言われ 後ろ指を差された人たちは統合失調症双極性障害だったんじゃないだろうか。高村光太郎の愛妻である智恵子のことを、光太郎自身も「狂った」と作品内で表現しているが、症状をみれば統合失調症(最近まで『精神分裂病』と呼ばれていた)であることは明白である。しかし私が中学校の時、国語の教師は智恵子を「狂死した」と我々に教えた。精神疾患の患者に市民権が与えられたのは極最近のことだ。統合失調症の陽性症状である幻聴に反応している人の姿や、双極性障害躁状態の時に見られる病的にハイになっている人の姿を見た周囲の予備知識のない人が「狂った」と表現しても、やむを得ない部分は確かにある。これも私見だが、子供を虐待したり家をゴミ屋敷にしてしまう人は、少なくない割合でこれらの病気なのではないかと推察している。悲しいことだが、私の妻も一旦暴れ出すと 誰も手を付けられない時期が長く続いていたが、そんな急性期を乗り越えて今に至る。


 私の人生において その時々、また渦中にあっては気付かなかったことだが 来し方を振り返った時、私は運が良かったと心から思えることが2つある。この年になって(まだまだ死ねないが)、しみじみそう感じる。1つは美容師になり 美容学校に勤めたことだ。親戚からの反対の中 美容師になった私が 当初のビジョン通り、もし美容室のオーナーになっていたら 今とは全く違う人生を送っていたであろう。不遜ながら自分で設立した店を潰すようなことはしない自信はある。起こした事業を潰してしまうのは、予測不能な突発的な事故が起きたのでもない限り 経営者として考えが甘く 怠慢だったのだと思う。それはさておき 私が美容室オーナーになっていたとしても、規模の小さな一国一城の主であるという以上のことは起きなかったであろうことは疑いない。「代表取締役社長」などという肩書きを付けてる地方の小さなパーマ屋のオヤジと名刺交換することも多いが、小ぢんまりとした世界で「師匠」や「先生」などとと呼ばれていたら、技術だけには自信があった私は 果てしなく偉そうになり、また性格的に固い守りに入る。そして自分の周り以外の世界は見えないままになっていたはずだ。
 私は結果的に美容室オーナーの道は選択しなかった。美容師としてのこの方針変更は、私や私の家族の人生にも大きく影響した。美容サロンの現場から 26歳の若造である私を学校に誘ってくれた人がいたことも運命だったが、入社15年後に学園本部に異動した私は勤務を続ける日々の中で、発病した妻に対する連日の介護と仕事の両立が出来ず、心身の限界に達し退職して世間に埋もれてしまった。そんな私に専業主夫からの脱却の道を作り、再び学校でのポジションを用意してくれた 我が校の先代理事長には 感謝の言葉しかない。私にとって 学校での仕事は現場美容師の何倍もの充実感を得られる 生涯の仕事だと確信している。また何より既に鬼籍に上がった先代に受けた恩義を返さなくてはならないと強く思っている。


 そして残るもう1つの幸運は 妻と結婚したことである。妻と出会い 結婚して20年位は なんということのない普通の夫婦であり家族だった。あえて一つ何かあるとすれば 妻が身体障害者であったことくらいだ。その妻が四十代の中頃になって、前述の通り病を得た。それは私の想像をはるかに超える悪夢だったのだが、当初そのことで私は運命を呪っていた。どうして妻にばかりこのような試練を与えるのか。この世に神というものが存在するなら いたずらが過ぎる。私たちにこれ以上どうしろというのか。しかし日々の状況はそんな余計な感情を差し挟めるほどの余裕はなかった。いつも必死で、涙と汗と寝不足の毎日であり、精神的には目隠しをされたままでの全力疾走だったからだ。
 妻に発作的な症状が出ることがほとんどなくなった今(現在は年に5・6回というところだろうか)になって思う。私は試練を与えられた訳ではなかったのだと。自己中心的な私に、人として大切なことを教えるために、神が『誰かのために生きる』という価値観を教えてくれただけだったのだ。全能の神は私に超えられない困難を与えられなかった。神が私に課したものは一度は私の家庭を根底から破壊しそうになったが、家族みんなが歯を食いしばって再建し なんとか折り合いがつく所までたどり着けたのだと思う。


 この世で一番大切なものは何ですか? と聞かれれば ためらいなく それは妻ですと答える。若い時のように愛でも恋でもないが、妻が悲しい思いや惨めな思いをしないように。この先少しでも多くの時間微笑んでいられるために私は生きていたい。そう考えると私は間違いなく幸運であり幸福なのだと思えるのだ。