孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

オリンピックという政治活動

 コリアンタウンと呼ばれる大阪市生野区の、とある通りにしばしば足を運ぶ。昔からここでしか買わないキムチの味を求めてだ。スーパーで売ってるパック詰めのキムチとは全く別物のそれは、中毒性が強いと思われ、多くの人は一度食べたら忘れられなくなってしまうはずだ。その店に通い始めた今から15年程前からしばらくの間は、通りに並ぶ食料品や衣類の商店の連なりは、韓国の人が多く暮らす地域にあるただの市場だったのに、最近はなんだか観光地みたいになってしまい、日本人(のミーハー)向けに店並が作られている。昔は普通に売られていたように肉屋に牛の脳もなければ豚の頭も、少なくとも往来からは見えない。そんなものが目の前にあったら、通りにひしめく少女たちは、『エー‼️気持ち悪ーい‼️』とギャーギャーうるさいだろうしね。
 昨今の韓国ブームは手に負えない(笑)ものがあり、我が校においても「私韓国がめっちゃ好きで、できることなら韓国人になりたいくらいなんですぅ〜!」などということを口にする女生徒も存在して、心の底から驚くのだが、K-POPのスター風のヘアメイクで身を飾る彼女たちにとって、竹島問題といっても何のことかわからないか、下手をすれば韓国の人に洗脳されていて、「あの島は『独島』という名の韓国の島なんですよ!」などと言いそうである。あっそうそう、独島があたかも日本領であるかのような(笑)記載の、東京オリンピック組織委員会発行の地図を廃止しない限り選手団を送らないと言ってた強弁は一体どうなったのだろう? 自国選手団には自前で弁当を準備するとか、ご丁寧に放射線量を測るとか・・・。こうなるともはやお笑いの領域だと思うのだが。しかし関係ないけど韓国の歴代大統領はどうして退任後にあんなに捕まるの(笑)?

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 台湾スイーツ・タピオカミルクティーの一大センセーションの記憶はまだ新しい。我が校は若者が集まる繁華街にあるので、遠くからもナウでヤングな(笑)女子たちが集まるが、タピオカを提供する店舗の乱立は目を見張るものがあった。我が校から歩いて5,6分圏内に3,4軒はできたただろうか。まさに雨後の筍である。あの行列にキャッキャッと騒いで並んでいた女の子たちは、台湾という国の歴史など知らないし興味もなかろうから、当然チャイニーズ・タイペイというヘンテコな名称の由来や、台湾に対する中国という国の野心も知らないだろう。中国の究極の理想は、全世界を手中に収めることなのかもしれない。この先数十年後には台湾はおろか、我が国も彼の国に飲み込まれているかもしれない。
 私は悲観的な予測が頭にチラついている。それは尖閣列島を奪った後、沖縄にも触手を伸ばしてくるのではないか?というものだ。しかしそうなったとしても、全面的にはアメリカは助けてくれないのではないか?

 ある意味オリンピックにおいて、自国の国旗さえ掲げさせてもらえない台湾という国にとって、NHKのアナウンサーが『Taiwan』と一つの国としてはっきり紹介したことは、選手団や祖国の人々の感涙を呼ぶに値するものでもあった。SNS上でもただちに話題になり、当然中国は抗議めいた声明を出した。『1つの中国』を損なうような紹介はすべきではないという主旨だ。誠に狡猾である。

刺身で打線を組んでみた

チーム名:フィッシュオールスターズ
監督:石垣 大(いしがき だい)

 

1番 マアジ
2番 キンメダイ
3番 シマアジ
4番 サバ
5番 カンパチ
6番 DH ケンサキイカ
7番 イサキ
8番 アワビ
9番 イシダイ
P(ピッチャー) ヒラマサ

 

〘1番 マアジ〙背番号(?)「ゼイゴ」
アジは美味い。まずは刺身から晩ごはんや宴に突入という場面で、華のトップステージを飾るのはこのあたりから攻めるのがいい。夏のマアジは特に美味い。味がいいからアジと名付けられたというのは真偽のほどは知らないが有名な話だ。ほんと、アジは幸せの味がする。

〘2番 キンメダイ〙背番号「目ェデッカ!」
高級魚である。刺身以外でも何をしてもうまい魚。私の郷里では魚の煮汁でうどんやそうめんを食べる文化があるが((鯛そうめんみたいなものだ)、キンメで煮魚を作っただし汁は全く臭みもなく上品な逸品である。もちろん刺身も超一級だ。

〘3番 シマアジ〙背番号「味の宝石箱」
私の郷里の五島では「ヒラアジ」と呼ぶ。この魚が刺身のテッペンだという人も多い。私もコイツを4番にするか、最後まで迷った実力者だ。口が弱いのが玉にキズの魚で、釣りにおいては強引に引き合いをしたら口が切れてバラしてしまうことも少なくない。当然ながら大物ほど引きも強いから逃がした魚は大きくなる。

〘4番 サバ〙背番号「時々は会いたい」
刺身ではなかなか食べられない貴重品。サバという魚は生なら酢でしめるのがポピュラーだが、新鮮なものの刺身は、食べたことのない人ならきっと驚くと思う。一度でもコイツを食べた人なら、私がサバを4番バッターに推すのも理解してくれると思う。味わいの濃さと深みは夢に見る程である(笑)

〘5番 カンパチ〙背番号「遠い所に行ったヤツ」
実家に住んでた頃、ある日食卓に突如並ぶ威容のある姿。カンパチの大きいのがとれるとまずはご近所におすそ分けをしてから、家じゅうの大皿を集めてコイツの刺身を盛ったとしても、家族6~7人ではとても食べきれない。刺身では日持ちしないから煮たり焼いたりしてやっと消化する、初秋の事件でもある。しかし美味い。高価ゆえ、なかなか天然物のカンパチはお目にかからないが、夏が来ると、子供の頃をしみじみ思い出す。

〘6番 DH ケンサキイカ〙「色白の小悪魔」
手足が多いという理由でコイツは守備に入れない(?)ので、DHだ(笑) ケンサキは別名五島イカ。それくらい良くとれる。五島でイカといえばケンサキである。甲イカスルメイカの類いのネッチャリした食感ではなく、半透明な身を持った真夏のコイツのパキパキした食感がいい。

〘7番 イサキ〙 背番号「梅雨の貴公子」
薄い黄緑色をした、見るからに美味くなさそうな色をしながらギャップの大きな魚。魚の身の味の濃さを測ることができるなら、イサキはかなり上位にくるんじゃないだろうか。豪快にではなく上品に食べたくなる魚。またコイツは骨が鋭いから煮たり焼いたりした時には骨に注意しなきゃいけない。

〘8番 アワビ〙背番号「道具が無きゃとれない」
似た生き物にトコブシというバチもんみたいなヤツもいる。アワビの子供とトコブシは素人には見分けがつきにくいけど、慣れれば一発だ。味で言うなら生ならアワビ、煮たらトコブシ。地獄焼きといってアワビを焼き網の上に仰向けに置いて火をつける、残酷極まりない料理もあるけど、いうほど美味くないと思う。いや美味くなくはないんだけど、やっぱりアワビは生で食べたい。

〘9番 イシダイ〙背番号「縞があるのは若造」
皮を剥いだら嘘のように綺麗な白い身が現れる。ちょっと古いが「私、脱いでも凄いんです」みたいなヤツだ。経験上一番美味いのは3kg位かな。釣り人は5kgオーバーだクチジロ・クチグロ(老成して縞の消えた個体)だと言うけど、大き過ぎても美味くない。釣り上げた魚体の大きさを競争するのは、釣り人のイチビッた自慢でしかない。

〘ピッチャー ヒラマサ〙背番号「スマートな実力者」
釣ろうとするなら知識も暇も金もかかるお大尽の遊びになる魚。道具を揃えるだけでかなりのものだ。また都会に住む人にとっては遠征しないとお目にかかれない。コイツをしばしば食えるのは、私のような離島に育った人の特権かもしれない。ブリ属3種(ブリ、カンパチ、ヒラマサ)の中では一番スマートで体の幅がない。他の2つに比べてアッサリしている夏のご馳走。

 なお代走やバント要員として、イワシ、キビナゴ、トビウオ、サンマなどの青物軍団が控える。彼らは間違いのないいい仕事をする。そして重量感たっぷりのクエ、マグロには一発のある代打として控えていてもらおう。またこのチームにはトリックプレーで相手を翻弄するヒラメというくせ者もいる(笑)

 

小山田氏のこと

 小山田氏の学生時代のことが大きな問題になっている。SNSでも大炎上だ。彼への攻撃は辛辣である。記事が真実なら鬼畜そのものには違いないが、鬼の首を取ったように後から後からかぶせてくるヤツらもまた多いこと多いこと。「イジメはダメだ」といいながら、本人はおろか彼の子供にまでその矛先を向けて「父親のことに沈黙しているのはその行いを容認してることだ!」と息巻く連中は一体何なのだ? それこそイジメ行為ではないのか? きっと小山田氏を攻撃している人たちは「あんなひどいことをしたヤツなんだから、責められて当然だ!」くらいに思っているから、自分がイジメをしているのだとは露ほども思ってはいるまい。日本人の悪い特性で、ある人が悪いとなったら全員でその人を責める。責めている本人は自分を正義側に置いているから悪いなんて思うはずがない。しかし私は思う。「お前らも一緒やないの?」と。

 

 改めて言うが、たとえ悪事を働いたことが明るみに出た人に対してでも、自分は微塵も関係していないくせに周囲の意見に乗っかって対象の人や、まして家族を執拗に責めるのはイジメでしかない。「私にも子供がいるから許せない・・・」などと、さも自分の攻撃が正当なことのように自己擁護するのはズルいし、人の振る舞いとしては低俗だと思う。「ひどいヤツだ!」と思うのは自然なことだが、その思いをエスカレートさせ、攻撃の矢を広く世の中に対して放ってしまうのは品性がない。

 

 論理が飛躍しているのかもしれないが、「寄ってたかって責めること」や「寄ってたかって笑い者にすること」に抵抗のない人は、自分のことは棚に上げるという特性があると思う。そのタイプの人は自分を客観視できないし、決して相手の立場で物事を考えない。例えるなら誰かに対していつでも笑えるように、またいつでも攻撃できるように 物陰に身を潜めて状況を見ているが、普段はその他大勢でしかない人だ。 私が「ドッキリ」と呼ばれるTVプログラムやフラッシュモブ、サプライズの類いの行為を好まないのはそんな理由からだ。他人の不幸を見てエンドルフィンが分泌される人からは、私は距離を置きたい。

 

 

『多様性』➖性別編➖

 多様性として語る項目ではないかもしれないが、ジェンダー問題の関連として、性別に関することについても思うところを。

 

 日本では女性しか助産師にはなれない。しかし産科医には男性もいる。綾野剛さんが演じた感動的なドラマも大変良かったし毎週欠かさず観たものだ。でもどうして助産師は女性に限られるのだろう? 医師はよくて助産師がダメな理由は? きっとその答えは、はっきり言えば気持ち悪いと思う妊婦さんが多いからなんじゃないのかな? 「お医者さんならともかく助産師さんが男なんてねぇ、アタシ嫌だわ・・・」ってところじゃないのだろうかと思う。知らんけど(笑) 多分この規則の制定に携わった人は、妊婦さんが「気色ワルいと思うだろうから」という理由では後世には残さなかっただろうとは思うが、これが正当な職業選択の自由を奪っているのならば、やはり男性差別だと言われても仕方ない。

 

 『女性議員を増やすべきだ!』と主張している政党の代表がいる。彼女たち、女性議員の人数を増やそうとする前に、なぜ女性議員が少ないのかを考えたのか。ただ『数を増やそう!』では文字通り頭数が増えるだけだ。万に一つも衆参議員中の女性議員の比率が法的に定められるような事態にでもなれば、政治家としての『資質』や『能力』不足の人材を『数』の縛りによって、議員にしなければならなくなる可能性だってあり得る。私に言わせれば、女性議員が少ないのはなろうとする人が男性に比べて少ないだけだ。決して能力も胆力も求心力もあるのに、女性であるというだけで弾かれてしまっているわけではないと思う。男女問わず議員としての資質や能力があるものが議員として働けば良いだけだ。

 

 もう一つ。それを女性差別だと騒ぐ人を納得させることができないような伝統が我が国にはある。正直私にとってはこれもうるさいとしか感じないのだが、宗教上の女人禁制(大峰山など)や、大相撲における土俵には女性は上がれないしきたりなどがそれにあたる。ある人が大相撲は純粋なスポーツというより神事であると言ったのを聞いたことがある。遠い昔我々の先祖たちは、そのような決まりを長い時間かけて制定し、神仏に接する際の侵さざるしきたりとして現在まで守り継いできた。現代の目でそれを判断するならば『否』なのかもしれないが、簡単にひっくり返せるものではないと思っている。

 天皇のお世継ぎ問題もしかり。ある意味リベラルな思想を持つ方々の中には新天皇が即位する条件を女性差別だとする一群も存在しており、女性天皇だ男系男子だと喧しい。皇室典範で語られるところの男系男子とは有り体に言えば『天皇Y染色体を持つ父から生まれた男子』ということである。よって現在の天皇陛下に何かあっても雅子妃や愛子様天皇にはなれない。男子ではないからだ。仮に候補者不足のためという名目で皇室典範を改正し『男子』は問わないことにして『男系』という部分だけを守り、愛子様(男系の女子)が即位されたとしても、次の世代となるお子様は『男系』ではないため天皇にはなれない。よって次の天皇、そのまた次の天皇と二代続いてお世継ぎ問題が起きてしまうものと思われる。ならばいっそ男系の縛りも撤廃しても良いではないかという向きもある。しかし万世一系、これまで千数百年を繋いできた伝統を簡単に変えられるのかという大きな問題がここでものしかかる。となれば秋篠宮家ご長男の悠仁様が次の天皇になる、というところまでは良いが、問題はやはりその後だ。悠仁天皇に女の子しか生まれなければ先が無いのである。今の時代、天皇家とはいえ側室を持つことが許されるはずもないのだから。
 私自身は旧宮家皇籍復帰させるしかないと思っている。また過去にも存在したように女性天皇は容認されたとしても、女系天皇の誕生には反対である。様々な困難を乗り越え守り通してきた、世界に類を見ない伝統と文化をあっさり変えるのは畏れ多いと思えるからだ。

 

『多様性』➖人種編➖

 大国アメリカでは150年以上も前に奴隷解放令が出たにもかかわらず、黒人問題は今でも為政者が匙を投げている絡まった糸だ(と私は思っている)。黒人が白人警官に暴行される事件が起ころうものなら、それだけを見て短絡的に黒人差別だと思ってしまうことは黒人差別である。しかしそのことに気付かないのは、自分の頭で考えるという習慣がないために、残念なことに洗脳されてしまった結果だと思う。

 この《黒人⇔白人》の図式はこれまでの歴史においても時代時代で対象となる人を取り替えながら、発生するたびに大規模な暴動のきっかけになったりしている。私はあれがはじめ不思議で仕方なかったのだが、理由を考えた結果ある結論に至った。それは、アメリカではひと度人種差別だと言われかねない(全くそのような事実がない場合でも)案件が起きた際、人種差別だと騒ぎたがる一群に寄せたスタンスをとらねばならない、というものだ。そうしなければ世論が収まらないのである。そしてそれは最早アメリカ国内だけでは収まらないところまでいってしまうのだが、私はその短絡的な流れには大いに違和感を感じる。偏っていると思っている。犯罪者は全ての人種に存在するだろう。であれば白人の犯罪者を逮捕する際に黒人警官がボカスカ殴ることだってあるに違いないのに、それは騒ぎにはならないのはなぜか? 百歩譲って警官が犯罪者に不当な暴力を振るったことに抗議するだけなら共感できるのだが。人種問題をなぜ絡める?

 少なくともアメリカにおいては17世紀の東海岸ジェームズタウン以来植え付けられた、有色人種に対して白人種が持つ格差の感情は恐らく今後も無くならないだろう。白人は心のどこかで有色人種を自分たちより下に、しかし特別なものとして位置付けることを続け、全ての人種が同等であるとはおそらくいつまでも思わない。なぜなら白人種にとっては、そう思うのはあくまで自然なことであり『理屈』ではないからだ。きっとそれは白人社会の中では、生まれた瞬間以後、育った環境の中で刷り込まれ続けた結果なのである。

 

 少し前に欅坂46のコスチュームに対しユダヤ人虐殺の戦争犯罪を想起させるという理由で、欧米各国が問題視するという事件があった。中でもアメリカのユダヤ系人権団体は嫌悪感を露わにし、謝罪を求めるというところにまで至ったと聞く。しかしさすが日本人は波風立つことを極端に恐れる民族である。今後このような衣装は一切使用しない旨のコメントを発表し、秋元先生を含め関係者が平謝りに謝ってコトを収めたらしい。
 しかし欅坂の女の子たちが着ていたコスチュームはナチス親衛隊の制服に似ているからホロコーストを擁護していることになるのか・・・。う〜ん。

 戦争における忌まわしい過去を想起させるものがダメだというのは、日の丸君が代がダメだと訴える考えに通じるものがある。映画でいえば有名なものだけでも『永遠のゼロ』や『風立ちぬ』も槍玉にあがったし、その批判は最近封切られた『進撃の巨人』にまで及ぶ。ダメだと騒ぐ人達にとっては、戦いはすなわち意味のない殺し合いで戦争賛美であり、死ぬことは理屈抜きに忌み嫌うことなのだろうか。なぜ戦ったのか、なぜ命をかけたのか。ここにこそ意味があると思うのだが。

 狂信的な選民思想を持った絶対君主に対し、恐怖に意見など言えなくなった取り巻きや、何も考えず追随したその他大勢。私はその時代は生きていないが、現代における差別といわれるものも、なんだか似たような構造である場合も少なくないと思っている。

『多様性』➖性的少数者編➖

 性的少数者の人びとの社会への参加機会が不十分であるとして、とある支援団体が政府に向けて出した声明文を目にする機会があった。いわく『(中略) 嘆かわしいことに日本の現状は、オリンピック憲章、オリンピックアジェンダ2020、そして国際人権基準に合致しておらず・・・』というものだ。その中では、日本は当然制定されているべき、性的少数者の法的保護がまだまだできていないと訴えている。また今回の東京オリンピックは日本という国の姿勢を世界に示すことができる絶好の機会であるとして、LGBT等の人びとに対する差別撤廃の方針を全世界に向けて発信すべきだとも。

 しかしもしこのような考えがスタンダードになれば、今までになかった問題が起こる懸念もある。例えば性自認で自分の性を選択できるとすれば、スポーツ競技はどうなるのだろう? また『自分は女だ』と言えば女性用のトイレや更衣室、はたまた公衆浴場なども公に使える訳で、それは正しいことなのだろうか。そして全ての人が認め、誰も傷付かないことなのだろうか。そんなことを考えていくと、自分は『女』または『男』でありたい、またはそれが必然だと思っていることで性別を決定するべきという考えは怪しくなってくる気がする。

 実際に、男として生まれ現在は女性として生きているトランスジェンダーの中学校教師が、転勤先の学校の校長から、トイレは男性用か多目的トイレを使うように指示され傷ついたということがヤフーニュースに紹介されていた。この教師は、自分が女子トイレを使うことを他の女性教員がどう思うかを調べるため、女子トイレにアンケートボードを置いたらしい。その結果、圧倒的多数の女性教員がイヤがっていることがわかったということだ。

 仮に、性的指向性自認に基づく差別を禁止する法律を作り施行した場合、どんな効果があるのだろう? それは『あるカテゴリーの人』を特別な位置付けに置いて優遇するということになりはしないか? 以前介護の資格を取得した際、ノーマライゼイションの精神とやらを学んだのだが、ガッカリしたことを覚えている。そこでは、高齢の方や障害のある方を優遇することこそ平等な世の中だと教えられているように感じたからである。弱者を優遇してもそれは平等ではなく、ノーマライゼイションの精神とはかけ離れているのである。

 件の中学校教師については周囲の女性教員がマイナスの生理的感情を持っている。この事実に対し「そんな風に思うことは人権的に問題がありますよ」と諭したところで解決はしないと思う。生理的にイヤなものはどうしようもないからだ。また、生まれた時は男の体だったトランスジェンダーのスポーツ選手が女子選手として、元々女性だった選手と同じカテゴリーで競うことに、私自身は公平性が保てないと思っている。男の体に生まれてしまったことに同情はするが。

過ち? 反省? 謝罪?

 毎年夏がやって来ると特別な感慨がある。長崎の小学校では8月9日は特別な日だ。夏休みのど真ん中であるこの日は毎年登校日であり、朝から校庭で全体集会があって(貧血の女の子なんかがパタパタ倒れる)、校長先生の長い話を聞かなきゃならない。そしてお決まりの、〽ああ許すまじ原爆を、三度(みたび)許すまじ原爆を・・・ の歌を聞かされた(歌わされるところもあったらしい)後、汗だくで自分の教室に戻り、今度は担任の先生から読本を配られて先生の家族や親戚の人の実例を交えながら、平和についての学習をさせられる日である。

 広島の平和記念公園にある慰霊碑の石碑前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。この碑文のことは我が故郷長崎においても先生たちがよく口にされていた。子供の頃は何気なく聞いていたのだが、大人になるにつれ文中にある「過ち」とは何を指すのか? また「過ちを繰り返す」の主語は誰なのか? と思うようになってきた(同じ疑問を持つ人は多い)。そしてその思いは戦死した私の大叔父のことや、親父の被爆体験を詳しく調べた後に益々大きくなっていった。私見ながら毎年8月になると、自分がやってもいないことに対して反省したがる人が増えるように思っている。「なんだかわからないがとにかく謝る」というのは日本人の特性だろうか。

 石碑の「過ち」は、日本が戦争という比類ない悲惨な道を進んだことを意味するのだと安直に流されそうになるが、それは今の頭で当時のことを裁いてしまうからに他ならない。その考え方では歴史を正しく理解することなどできないだろう。例えば売春は今では非人道的なことの代表みたいな位置付けであるが、昭和30年代初めまでは売春そのものを罰する法律などなく、昭和20年に終戦した大東亜戦争以前のいわゆる従軍慰安婦の存在を「極悪非道の日本軍」だと裁くのは不可能だし、そもそも不遡及の原則に全く反している。自分の意志で職業の一つとして戦地の娼館に赴いた人(もちろん家の事情で娼婦にならざるを得なかった人もいるだろうが、国や軍が強制連行をした事実はない)を、今の頭で可哀想だと思うことは相当無理と矛盾があると思っている。

 先の戦争直前の東南アジアにおいて、独立国は日本とタイくらいだった。清は列強各国に分割統治されていたし、他の国々もほぼ全て植民地だった。次なるターゲットは日本と定め、あわよくば自国の領土にしようと機会を伺っている欧米各国に対峙し、資源のない我が国が国民と国土、そして国体を守るためには、列強に占領されているアジア各国の土地を白人から奪い返し、領土拡大を狙う強力な相手との戦いに備えなければならなかったというのが日本の立場だったと理解している。仮にあの時戦争を始めなければ、日本は平和だったのか? 歴史に「たられば」はタブーであることは承知しているものの、例えば真珠湾攻撃がなかったとしても、当時の日本の領土が欲しくて仕方がない狡猾なソ連が黙っていただろうか? きっとそんなおめでたい話ではなかっただろう。しかし現代においては、僅かではあるものの反日的な近隣国では(国内にもそれに同調するアホはいるが)、当時の日本軍は好戦的な殺人鬼だったのだと喧伝されている。我が国においてもそれを助長するような教育が長年行われているお陰で、私たちはいつも反省したり謝ったりしなければならなくなっている。原爆を落としたのはアメリカである。あれだけ非人道的な決断と行いをした相手でさえ、そのことについての我が国への謝罪はないということは、表面的にはいざ知らず、反省などしていないと思う。

 歴史を振り返ることは必要だ。反省もしよう。しかし自分たちが悪くないことに対しては、謝罪の必要はない。石碑にある「過ち」というものがもしあるとするならば、そんなものを使わなくとも戦争は間も無く終わったであろう戦況下において、世界の領主になるべく世界に睨みをきかす目的で、あえて画期的で強力な兵器を投下して効果測定をしようとしたとしか思えない米国の野望にこそ当てはまるのではないだろうか?