孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

再生専用端末

 全ての人は、自分の頭で考えるタイプと、指示に従うだけのタイプに分かれると思っている。当事者意識や主体性などという価値や考え方がビジネスにおいてよく取り沙汰されるが、仮にわずかな当事者意識はあったとしても、オロオロするだけで誰かが指示してくれるのを待っている半端なパターンも少なくない。

 これらは仕事だけに限ったことではない。頭を使わない人は自分の辞書に『自分が考えて自分が判断する』という文字は載っていないから、自分が頭を使っていない、あるいは当事者意識が無いとはそもそも思っていない。だからそんな人に当事者意識の無さを指摘しても『は?』という顔をされたり、場合によっては『何言ってんだお前は⁉️』と反発されたりするのである。陸上の為末大氏もこのことを仰っているが、往々にして当事者意識などというものは、幸運にしてそれが身についた後、我が身を振り返って初めて『あの頃の私には無かった』と気付くものだから始末が悪いのである。

 しかしこの『そもそも自分が当事者意識が無いとは思っていない』一群に属する人たちの話なのだが、実際に本当の本当にそのあたりの意識の無いという人が増えてきた気がする。全くない。皆無なのである。そんな人に対する指導や教育はどうすればいいのか。これはきっと多くの管理職が抱える共通の悩みなのだと思う。私もここしばらくこの案件を考えてきた。そして一つの結論に至った。当事者意識が皆無の人には機械的・事務的に彼らが考えずに動けるように指示してあげるのが、そのタイプの人を活かす最良の方法なのである。能力の上書きができないのならば、再生しかできないDVDプレイヤーとして、その能力を最大に発揮してもらうしかないんじゃないのかと思える。成長・向上の可能性があるなら逃さないようには気をつけてはおくが、考える限りの指導や教育にフックしない人材ならば、『再生するだけ』として働いてもらうことが全員の幸せなのかもしれない。いわば再生専用端末である。

こんな男はやめた方がいいと思うぜ

 ある種馬鹿馬鹿しくある種切ない生徒の恋愛事情を耳にすると、『あぁ、そりゃワルい奴に引っかかっちゃったね〜』と感じることが多い。若い娘さんは、一度誰かを好きになってしまったら、自分ではもうコントロールできなくなってしまったりするだけど、ちょっとでも理性で考える隙が残っているならこんなことを言ってあげたい。

 好きにクズ男にダメ男、頼りない男にずるい男、こざかしい男に女々しい男、甲斐性のない男にセコい男、懲りない男にしつこい男。みんなダメだけど、実生活に即して一次フィルターにかかりにくい(要するに引っかかってしまいやすい『コイツだけはやめといた方が賢い』という男を並べてみた。


1. 上から目線でダメ出しばかりする男

 人の評価で『あの人はスゴい』などは口が裂けても言わない。お店の料理ばかりかや手作りのものまで『美味しい』とは言わない。たとえ言っても後ろに『けど』が付く。TVの新人、映画や自分の住む国や町さえも『最悪』らしい。こんな男と一緒にいると楽しくないし心がすり減る。どうせこんな男とは長続きしないからやめとけよ。


2. 店員にキレる男

 『お客様は神様』という、応仁の乱の頃に流行った価値観をそのまま現代に生かして、自分が『神様』でありたい男。間違いなく自慢しぃであり、相手がひれ伏すことで自尊心や承認欲求を満たすから周りからひかれる。そしてそんな態度は初めは店員に対してだけだけど、すぐに恋人にも同じ態度を取り始める。どうせこんな男とは長続きしないからやめとけよ。


3. 自分の淋しさを女性でうめようとする男

 この世界には『オカン女』と呼ぶにふさわしい女性がいる。オカン女は男の世話をすることによってのみ生きてる実感を感じる人種である。だから相手の男は世話の必要な『お子様』でないと逆にダメだ。オカン女にとっての最大の喜びは頼りにされることだから、オカンは今日も、偉そうにしたと思えば『体調が悪い』だ、『熱がある』だと甘えてきたり、しばしばすねたりする厨ニ男をかがいしく世話してるいるのである。男というもの、自分の辛さや淋しさを女性でうめるんじゃなく、女性の淋しさをうめてあげるものだと思う。

 さて、自分がオカン女にならないようにするのは当たり前だけど、どうせこんな男とは長続きしないからやめとけよ。


4.とにかく運転が荒い男

 ステアリングを握っている時なんだか怒っているヤツ。横断歩道の子供やお年寄りを舌打ちをしながらイライラ見送り、自分の前に誰かが割り込んで来ようものなら抜き返したり車間を詰めたり。車は遮蔽空間である。要するに誰からも影響されない空間に置かれたら、その男はそうなるってこと。同棲や結婚したらって考えたらね・・・。どうせこんな男とは長続きしないからやめとけよ。


5.失恋したばかりの女に言い寄る男

 人付き合いや人間関係にはルールがあるように、当然恋愛にも掟がある。しかし女を排泄の手段としか考えていない男にとってはこんな状態の女性は美味しい獲物なのかもしれない。人の弱みに付け込むなどゲスの極みだが、私がこれまで接した中では、モテる男にこのタイプが多かった。でもどうせこんな男とは長続きしないからやめとけよ。

西瓜の棚落ち

 スイカは懐かしい。冷蔵庫で冷やしたスイカをテーブルの上に置き、父が狙いをすまして菜切り包丁でザックと切る。大きくゴロリと2つに割れた赤い果実。ランニングを着た小学生の兄と私は目を輝かせて正座でそれを見守っている。やがて一人ずつが持てる大きさにまでなり、兄と私は笑顔で手に取ってかぶりつく。包丁を振るった父も母から一切れ受け取って家族みんなを見ながら頬張った・・・。あのスイカ、今は売っていない。いや売ってはいるものの、あの時のスイカじゃないのである。何が違うのかを口で説明できないが、兄とタネの飛ばし合いをしていたころのあのスイカを食べてみたいなぁと切に思う。今のスイカでは『夏』を頬張れない感じがするのだ。

 スイカという野菜(果物?)は初夏の風物詩ともいえるが、最適な収穫時期を逃してしまっていたものや採ってから時間が経ったものは、果肉に空洞ができたり、持ち味のシャリシャリとした歯触りがなく柔らかくなってしまう。そんなちょっと美味くなくなった残念なヤツを「棚落ち」したスイカと呼ぶ。そんな言葉(用語)も最近ではあまり聞かなくなったが、妻の実家は島根県出雲大社のおひざ元で農家をしていた関係で、結婚以来このようなお百姓さんが使う言葉に近しく触れることになった。このようにスイカ農家にとって、収穫時期というのは農協の買取価格にも響くから、かなり神経質になるのも当然だ。この世には1玉1万円もするスイカがあるらしいが、ほとんどが水分である果実にその金額を払えるお大尽がいるからそんな値段にもなるんだろう。一切れでいいからそんな高級品を食べて、冥途の土産にしてみたいものだ(笑)

 しかしこの『スイカの棚落ち』という言葉、元々とんでもなく品の無い、また差別的な意味をもつ隠語であるのを知ったのは最近のことだ。ここで述べる訳にはいかないので、駄文をご覧になった方はぜひ各自お調べになっていただきたい。ややこしいことで誠に申し訳ない。

礼装(女性)

 友人として結婚式に招かれた女性は考える。何を着ていこうか? どんなかばんを持ち、どんな髪形をし、どんなメイクがいいのか?と。その結婚式には新婦の学生時代に仲の良かった3人が招待されたのだった。3人は全員、当日円卓で写真を撮ったり食事をする我が姿を想像し、持てる全力を出し切って少しでもかわいくなれる方法を魂を込めて考える。
 「なぁ、披露宴何着る?」「私な、ちょうどええの持ってないから買おか思てんねん」「エーずるい! じゃあ私もそうするー! 一緒に服見に行こやー」「ほんなら今度の土曜にQ’sモールにでも行こか?」。しかしそう決まりかけたものの、3人目の友人が口をはさむ。「私キモノ着たいねやんかぁ」・・・「エ?」。周囲との調和のみで生きてきたこの3人の女性にとってはこの発言は一大事だった。「◯美がキモノ着るんやったら私も合わせよかなぁ?」・・・「エ?」。にわかに形勢は激変し、招待された3人で着る物の格を合わせようとしたものの、キモノ2人、洋服1人になってしまったのだ・・・(実話だ)。
 余談ながら女性にとっては自分1人だけが浮いている状態というのはかなりのストレスになる。もちろん男だって感じない訳ではないが、女性にとっての『自分だけという状態』を避けたい気持ちの強さは、男性の10倍はあるように思う。

 さて結婚式に招待された時、女性は何を着たらいいのだろう? 以下私個人の価値観も織り交ぜながら女性の礼装について小うるさく語ってみたい(笑)

《和装》
 お母さん、または親戚のおばさん方は留袖で迷いはなかろうが、問題はそれ以外の方々の和礼装である。普段着物など着なから、着物の格やそれに応じた種類もわからない人が多いと思う。ネットを調べてみてもなんだかわからないが、教科書通りなら未婚女性は振袖が最も格式が高い。髪型やメイク、持ち物なども当然それに合わせるべきであるにもかかわらず、成人式の様子を見れば全くそんなことは今の日本、お構いなしであることがわかる。昔の方が結婚する年齢は低かったため、未婚であっても20代中頃を境に途端に着なくなるのがこの振袖だ。もちろん30になっても40になっても着てはいけない決まりはない。
 留袖や振袖以外では礼装という意味を重んじるなら、色留袖、訪問着、付け下げの順だろうか? 異論はあるかもしれないが。もはや家紋でさえも年寄り以外は気にもしないと言えば言い過ぎだろうか。

《洋装》
 これが難しい。日本には洋装の、中でも礼装の歴史が無いため、全くもってわからない人がほとんどだろうし、正装であるアフタヌーンドレスなんかは皇室の方々や、総理大臣夫人、入閣した女性議員でしか見たことはない。でもいったいドレスってなんなん? ね、難しいでしょ(笑)? 皆さん一様にセミアフタヌーンドレス『風』のワンピースなんかを着て、素肌を隠すようになんだかヒラヒラした半透明の布を肩にかけていらっしゃる(そもそも昼間に肩を出すものは通例着てはダメだ)。結論的には着る人が平民ならば、雰囲気的にその場に違和感が無く、誰にも後ろ指を差されなければ『何でもよろしい』ということになってしまうのが日本における女性の洋礼装だと思う。

『ファン』心理?

 ARASHIの相葉雅紀さんと櫻井翔さんが結婚されるという。まずは日本の芸能会を引っ張ってこられたお2人だ。ああ、ここでご自身のご家庭を持たれ、人生の第二幕に入られたなぁと私も大変嬉しく、面識はないが(笑)心からお祝いを申し上げたい。しかし街でのインタビューでは「ショックだ」という声が少なくない。ここ最近でも松坂桃李さんや新垣結衣さんの時など、会社を休む人まで出たらしい。

 ファンである人の結婚がショックなのはなぜか?その方の幸せは願わないのか? ファンとは何者なのか? その方のことを好きで応援したいのではないの? よく芸能人を通じて疑似恋愛をしているのがファンというものだと言われるが、では自分が恋愛や結婚をしようとする時、自分がファンであるその方に気を遣うのだろうか? 答えは否だ。ではファンというものは多分に自分勝手と言われても仕方あるまい。その人の幸せを願うどころか、自分の幸せのためにその人を利用しているだけなのだから。まぁそんなことがわかっているからアイドルは異性と恋愛関係をああまで必死に隠すんだ。日本だけだろうなぁそんなの。ことこの分野に限っては、日本には子供っぽい人が多いのかもしれない。

 余談ながら一ファンとして。神木隆之介君と松原の奇跡、西野七瀬さんは複数のCMでも共演してるけど、ホントお似合いだと個人的には感じている。結婚しないかなぁなんて勝手に思うこの頃だ。そういえば神木隆之介君は可愛い女優さんと共演するなぁ。フォルトゥナの瞳では有村架純さんとの共演だった。この映画でアシスタントでヘアメイクに入ったウチの卒業生から、撮影時の有村架純さんの言動や振舞いを耳にしたけど、彼女はホントに優しく可愛らしい性格のようだ。芸能人のこんな話を聞くとホッとする。ホンマ偉そうで腹立つヤツもいるからなぁ(笑) あっそういえば先日神木さんと一緒に独立された佐藤健さんも『るろうに剣心』で有村架純さんと共演してるか。ならば佐藤健さんは有村架純と、神木隆之介さんは西野七瀬さんと結婚・・・なんて願う都合のいい勝手なファン心理(?)である。

組織の潤滑油

 我が校では長い間教職員を募集し続けている。常に未充足状態といってもいい。我が校は生徒の退学も教職員の退社も少ない方だと自負しているが、とにかく人がいない。いないから募集するのだが絶望的に来ない。やっと来ても面接に受からない。一体これはどうしたもんだろう。
 でもつい先日久しぶりに4名の応募者の二時面接をさせていただいたが、嬉しいことに1名の合格者を出せた。この方にとっては、我が校に入社するための次なるハードルは、学園のトップである理事長の面接ということになる。

 世の中には人事面接というものが好きな人がいる。面接される側ではなく面接官の方である。以前同僚に演劇をかじった人がいたが、この人が面接がとても好きな人だった。『好き』という思いが滲み出ていた。条件的に全く合わず、不合格であることが明確な応募者に対してさえ『あなたにとって仕事とはなんですか?』のような芝居がかったことをいくつも訊ねて、その場を自分が支配しようとする。ヘタをすると仕事談義でも始める勢いか?ということもあった。だから面接官として同席している私は早く終わりたくてイライラすることも何度かあったものだ。面接の場というのは圧倒的に応募者側が関係性としては下の立場になるから、要するに偉そうにできるのが嬉しいのである。まぁセコい小市民には違いない。

 さて有名な誰かが言った教えなのか、ベストセラーの本に書かれていたのかは知らないが、以前面接時に『潤滑油』というワードを使うといいと話題になったことがあった。面接の際『私は組織や仲間の中では潤滑油の役目として・・・』みたいなヤツだ。ある日スケジュールの都合で集団面接を5人という多人数で行うことがあった。自己紹介(アピール)を順にしてもらったところ、何とその中の3人が自分は潤滑油だと言ったのである。
 こうなるともはや面接室は油でベトベトである(笑) 殺伐とした職場の中で、その人がいるために全員がギスギスせずに済む、ということを言いたいのだろうが、今ひとつピンと来ないのも事実だ(笑) そう聞くと一瞬『ふ〜ん』とは思うが私自身はそんな人よりキチンと聴けて、キチンと自分の頭で考えられて、キチンと主張することのできる人が、ノドから手が出るほど欲しい、、、。

heart of glass

 『仲間意識が仲間外れを呼ぶ』とはよく言ったものだと思う。我が校の生徒たちを見ているとあまりにもコミュニケーション能力が無さすぎて笑ってしまうことがままある。多くの生徒は一人でいることができないのに、自分から働きかけてコミュニティに参加することもできない若者が少なくない。子供時代のように「混ぜてー!」と言って仲間に入れないのは、『もしかしたらそれを言うと嫌な顔をされるのではないか?』とか『自分で思っているほど私は受け入れられていないのでは?』みたいな不安があるからだ。
 そんな不安こそ取りもなおさずネガティヴフィードバックに弱い、現代に生きる若者の精神の脆さを如実に表している。とにかく否定されたくないのだ。図々しい奴と思われるのは死んでも嫌だ。自分を受け入れてくれない環境では一時たりとも居たくない。

 せっかく入学した学校だが、途中で通うのが嫌になる生徒も残念ながら存在するが、その理由として周囲との人間関係の不調和によるものが目立つようになってきた。しかし誰かと明らかに反目しているわけでも喧嘩をしたわけでもなく、『自分は嫌われている』『自分だけが仲間外れになっている』という勝手な思い込みであることが少なくない。そして我々世代には想像もできないことだが、そんな『誤解』であるかもしれないことを確認することはしない。LINEの返信が遅いとか一言で終わるシンプルものだったとかというだけで勝手にネガティブな深みに入っていくのだ。

 若者の心の弱さがよくわかるものとしてはまだある。例えば一生懸命やったことがむくわれなかったこと。よっぽどこれまでの十数年、ヨシヨシとチヤホヤされて生きてきたんだろうなぁとため息が出る。自分の『頑張った』という行為に対し誰も反応しない、また賞賛がないということに慣れていない。欲しがっている。自分の案が通らなかった時、失恋した時、意中の就職先に入社できなかった時・・・。ダメ元という言葉があるが、それはきっと今は中年以上の年齢である人にしか適用できない。若者はそんな考え方はしないからだ。ダメになる可能性があるなら初めから手を出さない。

 今やこれらの『ガラスのハート』を持っているのは生徒ばかりではない。生徒を指導しなければならない教員でさえ、異常なまでに保護者にビビり、対応するのを嫌がるし、ちょっとした要望でもクレームだと大騒ぎする。自分の至らなさを指摘されたり自分を否定されることを極度に恐れているためだ。メンタルがすぐ壊れて、素直で文句を言わない生徒しか扱えなくなってしまっているこんな『指導者』は、自分が退職するときでさえ直属の上司に自分で連絡できず『退職代行サービス』を使って意思を伝えて来たりする。

 対面でのコミュニケーション力がこれ以上貧弱になると、毎日のあいさつも顔を合わせず、部下に対する指示命令もメールで、また質問や指導もメールで行うことになるのだろうか? しかしこれでいいのか?