孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

幸運な男性美容師1

 美容学校の校長をさせてもらっている。今この歳になって思う、美容師という仕事を選んだ男性に贈るメッセージを少々。

 私も美容師なので昔の話だが美容学校に通っていた。当時美容学校は1年制で、あっという間の卒業ではあったが、在学中私は周りが就活を始める秋以降も就活などしなかった。そろそろ働くところでも探さないとまずいかな?と思いだした2月のある日、下校して駅に向かう通学路で、胡散臭いオッさんが私に近寄って話しかけた。「怪しいものではありません」と。男は十分怪しかったのだがその人は心斎橋にある、かなり有名な美容室のマネージャーだった。元々心斎橋で働きたいと思っていた私は、ホイホイとその店の面接に行くことにした。美容師としてのキャリアの入口はこの通り極めていい加減だったが、そこで勤めた美容室が私の人生における価値観や考え方を決定したのだった。
 当時は美容師などという仕事は安月給、長時間労働、福利厚生も考えられておらず、雇う側にとって若い学校新卒のインターンなど、ボロボロになるまで使ってダメになったら捨てる消耗品に過ぎなかった。私が卒業直前に入社が決まったその美容室「カットサロンR」も、ご多聞にもれず4月に入社した12人の新卒の同期が半年後には4人になり、それからさらに半年後、次の新人を迎えることができたのは 私ともう1人だけだった。それでも私は2年頑張った。自分に対して頑張ったという表現が恥ずかしくない。店はビル自体が休業する月に一度の休み以外に個人の休みが月毎に5日あった。私は自分自身遅れをとったと思ったK美容学校のヤツらに負けているのが悔しくて、ビルが閉まる第3水曜日以外は、営業に慣れることとレッスンをするために全て休みを返上した。
 当然だろうが3ヶ月もしないうちに体調不良との闘いが始まった。精神力だけで勝負するという、メンタルヘルスの観点からするとこれ以上過酷でバカバカしい仕事の仕方はない。それに加えて殺伐とした競争の中にあって私は意地でも欠勤だけはしたくないと思っていた。とにかく風邪をひこうが熱が出ようが店には立った。熱でフラフラになった状態でのシャンプーは気が遠くなった。ドライヤーの熱気に目が回ったり、カラー剤の臭いに我慢できずトイレに駆け込んで吐いた。お客様に対し 失礼だとか自分が感染させられないというようなことは念頭にはなく、ただただ自分本位で勝手な考えでしかなかった。これも社畜の一形態であろうか。しかも一人暮らしの安月給、保険がないから病院にも行けない。親に頼ることなどできるわけもなく、体調を崩した時には意地だけで生きた(笑)
 オーナーは厳しい人だった。子供の頃に小児麻痺を患い、半身には麻痺があった。ハサミを持たない方の手は水平以上に肘が上がらなかったし、握力も幼児並みだったことで、美容の技術を行うには困難を極めた。片足の自由がきかないオーナーがカットをする姿は、失礼ながら健常者から見れば半ば奇異とも感じられるものだった。しかし美容師という職業を選んだその人の志に私はついて行きたいと思えた。その人が話す言葉にはいちいち重みがあり納得できた反面、今では考えられないことだが、何度か殴られたこともある。お客様の前では手をあげることができないから、足で蹴られた。振り上げた足のかかとでスネを一撃される。お客様には気付かれないようにそうしているのだから、私が気づかせるわけにはいかないが、目から火が出る程痛く、また情けなくて涙が出た。理不尽な仕打ちではなかった。オーナーは何に対しても一直線で真摯な人だったから、他人にもその姿勢を求めただけだ。私たちスタッフがいい加減な姿勢で仕事をして、誰かに迷惑をかけた時には正に烈火の如くであった。
 しかしそんな私もとうとう2年勤めたその店を退社することになる。オーナーには生活面でも随分助けてもらい心配もさせたが、私の腰は悲鳴をあげていた。一つ残念だったのは、健康上の理由で辞める相談をした時に、オーナーは私に「あっそう。お疲れさん」とだけしか言わなかったことだ。きっと仕事が辛くて逃げようとしたのだと判断されたんだと思う。一切の言い訳を許さない厳しい人だったから。(つづく)