孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

余命

韓国の作品で日本の小学校の教科書にも載っている「三年とうげ」という民話がある。内容はこんな感じだ。

ある所に三年峠とよばれる峠があり、そこで転ぶと3年しか生きられないという言い伝えがあった。あるおじいさんが隣の村に反物を売りに行った帰り、三年峠に差し掛かった。夕暮れの山道、あたりが暗くなってきたから急いだせいで、あれほど気を付けていたのに石につまづいて転んでしまった。自分の寿命はあと3年になってしまったと思ったそのおじいさんは、食事も喉に通らなくなってとうとう病気になってしまった。そんなある日、見舞いに来た水車屋がおじいさんにこう言った。「おじいさんの病気はきっとなおるよ。三年峠でもう一度転ぶんだよ」 「ばかな。わしにもっと早く死ねと言うのか!」 「そうじゃないんだよ。1度転ぶと3年生きるんだろ。なら2度転べば6年,3度転べば9年だ。こんな風に何度も転べば長生きできるはずだよ」 おじいさんはしばらく考えた後、うなずいた。そしてふとんからはね起きると三年峠に行き、わざと何回も転んだという話だ。この話は子供が宿題の本読みを食卓テーブルでやっていたのを聞いて知った。あと僅かしかないと思った寿命を逆手に取った、逆転の発想が冴えるいい話だなぁと思ったものだ。

今年は命について考えさせられている。私に頼りヨロヨロと毎日を送っている妻にとって、共に田舎者同士で辛さや淋しさを慰め合い支え合ってきた35年来の友人を新年早々に、また父母と長兄を見送った後、唯一頼れる肉親である次兄を初夏に、いずれもガンで亡くした。神というのもが本当にいて人の運命を操っているならば、今年はいたずらが過ぎるんじゃないかと思える。2人の訃報を聞いてから葬儀に参列するまで、いずれの時も私たちは夫婦共々涙に暮れた日を送ったが、数か月経った今も何かのきっかけで不意に思い出してしまい、喪失感に立ち尽くすことがある。

医師に余命3ヶ月と言われれば、きっとそれはこの上なく悲しいことだろう。ましてや親友や親兄弟なら尚更である。宣告を受けた人には生きている内に精一杯優しくしてあげたいのが人情というものだ。しかしこれは3ヶ月という時間が短いと思う故成り立つ話である。仮に後10年の余命宣告だったらどうだろうか。30年なら? 寿命というものを突き詰めると、人は生まれる時に既に余命80年の宣告を受けているようなものだ。そう考えると他人に対して少し優しくなれる気がする。