孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

LGBTと基本的人権

性の指向においてこれまで人に言えず苦しんできた人たちに対する迫害の歴史は、最近ほんの僅かではあるが変わり始めているようにも思える。我が校にもそのことについて、自分では解決できないままの若者が毎年数名は入学してくる。ある生徒はその悩みを周囲に公表し、またある生徒はあくまで鬱屈した思いを自分の中に押し殺して。

確かにこのことで苦しんでいる人たちには救いがあればいいとは思う。しかし基本に立ち返り、全ての人の基本的人権という観点から見れば、救いが必要なのはこの人たちだけではないだろうという思いが湧き上がってくる。性の対象が同性や両方の性など、多様な形があることは認識しているものの、その枠には入りきらない人だって存在する。LGBT(さらに細分化されたカテゴリーもあるようだ)が是ならばあらゆる性的指向も是とされなければならない。例えば小児性愛者の人権は守られているだろうか? 彼らは変態扱いされてはいないか(彼らと言ってしまったが彼女たちかもしれない)? Wikipediaでさえ、小児性愛者は精神医学上の障害だと述べられているし、『常識的な性道徳や社会通念から逸脱している』ということだ。人に言えない自らの性志向に苦しんでいることについては、LGBTとなんら変わらないはずではないのか? 

いや私は小児性愛者にも公平な恋愛や性の機会を与えるべきだと言っているわけではない。むしろ逆である。LGBTの方々の生活レベルを守るため 、法整備や啓蒙活動に全面的に邁進することには違和感があるということだ。障害者におけるノーマライゼイションの精神のように、障害の種類や軽重に関わらず、健常者と同じように生活を送るのが当然の権利であるが如く語られることに対して、私自身は疑問を持ってしまうのだ。あれもいい、これもいい。あんな人の指向もこんな人の指向もOKっていうのは危険なのではないか? 

しかし今日もまたテレビで、LGBTの人権を叫び、生活の質の向上を訴えている活動を見た。しかしLGBTの方々だけが優遇されることを不公平とは思わない似非ヒューマニストたちが「全ての人の」人権と生活の質の向上を、したり顔で訴えることには鼻白む思いである。