孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

T君の恋 2

 私たちの活動範囲内に、夜はスナックで朝昼は喫茶店という店があって、よくたむろした。そこには奈緒美(仮名)さんという20代後半から30代前半位に見える雇われママがいた。私たちは皆、妙齢の奈緒美さんに大人の女性としての憧れを持っていたのだろう。いつも綺麗にしていて私たちのような若造がイキがって一人前のフリをしても、決して馬鹿にしたりはしない、私たちにとっての大人のアイドルであった。
 ある日Tピンが珍しく美容学生である私に連絡をしてきた。しばらく会っていなかったこともあって久しぶりの再会となったのだが、なんだかTピンの顔付きがおかしい。思い詰めた様子である。どうしたのか訊くと、これから奈緒美さんの店に行くから付き合って欲しいということだった。変な感じであることは否めなかったが、とにかく2人で行くことになった。時間は昼前。店の厨房に忙しそうにしている奈緒美さんがいた。軽い挨拶の後、私はカウンターに座った。しかしTピンはつっ立ったまま拳を握り、何かを言いたそうにしている。私は5分ほど奈緒美さんと話をしていたが、気になりふと見るとT君が涙目になっている。改めて奈緒美さんと私はT君を注目した。「Tピンどしたん?」奈緒美さんの問いにTピンは硬直したように数秒黙っていたが、急に奈緒美さんの目を見て叫んだのである。「奈緒美さん。好きです。大好きです!」。奈緒美さんはあっけに取られたように「え?Tピン、、、どしたん?」と再び訊いた。それを受けTピンは再び「好きなんです。僕は、、、今学生ですけど、、卒業して仕事を、、始めたら、結婚、したいです。今すぐ、大学を辞めて仕事したい、、んですけど、それは両親に申し訳ないから、、、」。横に座っている私はどうしたらいいのかわからなくなった。こんなにも純粋な男に他人が何かを言える訳はない。奈緒美さんははじめは冗談に捉えようとしていたが、Tピンはふざけたことができる奴じゃない。とうとう笑っていた奈緒美さんが黙り、店内を静寂が流れた。そして。奈緒美さんが口を開いた。「Tピン、有難う。本当に嬉しいよ。・・・でもね、私ね、2歳の娘がいるんだ。Tピンが思ってるような人じゃないんだよ」。私も奈緒美さんに子供がいるなんて事は全然知らなかった。(これは大変なことになったぞ)と思ったが、Tピンは全くひるまずに、間髪入れず「いいです。そんなことは」と身を乗り出した。「俺が働きますから」となおも迫るTピンを前に、いつしか奈緒美さんの頬には涙が伝っていた。
 Tピンは本気だった。その日はカウンターの中で泣いている奈緒美さんを残して、Tピンの腕を掴み店を出た。この日これ以上突っ込むのは、女性に対しあまりにも無礼だと思ったからだ。Tピンには「奈緒美さんが困っているから」と言って。20歳そこそこの学生が扱うには余りに重たい案件だと思ったのも事実である。現実は冷酷だ。その出来事の後、奈緒美さんは僕たちの前から居なくなった。案の定Tピンは深く落ち込みいつもにも増して泣きに泣いた。そして自分を責めた。奈緒美さんにも人生の設計があっただろうに、自分がつまらないことを言ったばかりに、、、と。Tピンのこれまでにないド級の落ち込みように、私たちは慰める言葉も無かったけれど、一緒に飲み明かし泣き明かすことはできた。
 それから数年が経ったある日、Tピンにこの日のことを冗談めいて茶化した私に、Tピンは目を見開いて「何や!」と突然本気で食ってかかってきた。私は驚きはしたものの、すぐにTピンの一本気な性格を忘れていた自分を反省し平謝りしたが申し訳なさで心が痛かった。彼はいつも全力だ。彼の中ではあの日のことは、何年経ったとしてもきっと死ぬほど悔しい思い出のままなのだ。
 事情は良く知らないが、Tピンは成人近くになってから親戚の家の養子になったから本当はTピンではなくS君だったのだが、私たちは呼び慣れたTピンの呼称を変えることはしなかった。大学卒業後Tピンは銀行に勤めた。振り返ると、あの頃の友達もみんな歳をとった。お互い頻繁に連絡を取り合うことはなくなったが、偉くなったヤツ、独立したヤツ、離婚したヤツ、外国に行ったヤツ、なんでそんなことしたの?のヤツ、色々だ。かく言う私もその「色々」の一人だけど。

火垂るの墓

 8月になると昔なら『火垂るの墓』がTVで放送され、子供もふくめた家族で観たものだが、最近はあの手の直接的な作品より、精神的に弱かったりハンデがあったりして、生きにくい状況下にある主人公が友情や家族の優しさに触れ・・・みたいなアニメが主流であるように思う。

 

 最近は『火垂るの墓』は視聴率が取れないらしい。なんでも世の親は、少なくない確率で『かわいそうだから子供には観せたくない』らしい。平和ボケもここまでくるともはや末期だと思うが、戦争なんだから理不尽で不公平で凄惨であることは付き物なのである。かわいそうなものを見て人の悲しみや苦しさを感じることでこそ戦争の惨さがわかり、それが平和を望む心の源になるのだと信じる。今年はおろか、どうやら向こうしばらくはテレビでは放映しないみたいだ。


 『火垂るの墓』はしんどい。結婚して娘を得た後は、節子を我が娘に投影してしまいさらに覚悟しなければ観ることができなくなったものだが、時は流れて自分自身人生の折り返しを迎える頃からは、節子がかわいそうなのはもちろんだが、妹を守ろうとしたがそれが叶わなかった兄である清太に同情が強くなり、悲惨な運命に抗うことができなかった兄の思いに涙する。


 戦争から離れれば戦争をせずに済むというのは世界の歴史を見ればファンタジーであることがわかる。大国の毒牙にかかった国の民がどのような辛苦を舐めたのかは、平和ボケの日本に住まう我々とて知っているではないか。
 
 「憲法9条を改正したら徴兵制が敷かれ、戦争が始まる」や「子供たちを戦場に送るな!」という理屈は、あまりに短絡的でかえって危険だと私は思うのだが、その考えを支持する人も少なくない。危険だといったのは我が国の文化や領土を狙う国が現れた場合(もう既にあるが)、脆弱な国防体制はそんな国を利することにしかならないからである。火事に備えて消火器を用意しているだけなのに「火事を起こす気か!?」と言われてもなぁと私などは思ってしまうのだ。


 ということで、平和を求めるならばまず戦争を知らねばならない。原爆記念日の今週あたり、きっと10回は観た『火垂るの墓』にまた浸ってみようかな。

コロナ 2

 我が美容師の国家試験には実技と筆記があり、それぞれ2年生の卒業直前である2月と3月に行われる。希望を言わせてもらえるなら、それぞれ1年前倒しして、1年次末に受験させてくれれば嬉しいところだ。美容学校のカリキュラムというのは、厚労省管轄でかなり縛られてあり、国家試験科目は科目ごとの時間が取り決められているし、またその履修の考え方についても息が詰まるほど厳格である。各学校の勝手は許してくれない。


 美容師にとって、最も高い意識が求められるものの一つが、衛生的に仕事を進めることである。間違っても病気を媒介するようなことがあってはならない。だから美容学校のカリキュラムにおいても、消毒のことは『衛生管理』という科目の中で、重要なパートとして多くの時間を割いている。どの消毒液をどんな希釈濃度で何分浸けておくとか、皮膚に接する器具・用具それぞれの消毒法であるとか。


 本日テーマにしたいのは国家試験筆記科目の要である感染症、そして話題のコロナウィルスのことだ。まず感染症は大きく5種類プラス1(新型インフルエンザだけで1つのワクをもらってる)に分かれているが、新型コロナウィルス感染症は上から2つ目の第2類相当に分類されている。ポリオ(小児麻痺)やジフテリア結核などと同じレベルだ。ここからは私の考えだが、日本(厚労省?)がこの位置付けに決めたのは、ちと早まったのではないか? 重症化する割合やその症状、死亡率などを鑑みると、インフルエンザや百日咳、麻疹なんかと同じく第5類が適当だという主張をしている医師たちに私は完全に同意する。第2類の感染症である故の措置によって看護師や病床が不足し、医療が逼迫することに繋がっていることは明白ではないか。


 基本的に医師というものは、患者やその家族には大げさに言うものだ。余命は短めに、治療は困難で、珍しい症例に。きっと第5類に格下げすると、変異したウィルスなんかがいくつかのクラスターを起こした際、カテゴリー格下げの推進をした人がたたかれることを恐れているのだろう。余命1年と告げておいて実際には半年で亡くなったりしたら、ヤブだ医療事故だと言われかねない理屈と似ている気がする。


 しかし『コロナ脳』の自称正義の味方の市民は感染者の数だけをあげつらうマスコミにまんまと乗せられ、危ない危ない、自粛自粛となってしまっている。しかし私は専門家委員会の人たちは、私が述べたこと位とっくにわかっていると思っている。初動を誤ると後々修正できない好例だが、学校みたいな所に勤めていると『世間で言われているほど大した病気ではない』みたいなことを発信しようものならマスコミに毒された例の『コロナ脳』の保護者対応に一日中忙殺されかねない。

コロナ 1

 国も府も政治家もキャスターもテレビもニュースも偉そうに口を揃えてコロナだから自粛しろという。感染予防をしましょう、マスクをしましょう、手を洗いましょう、消毒しましょう・・・。まぁそれはそうだろう。そこには文句は無い。しかし、出勤は◯%以下に、◯時以降に酒を飲むな、◯以上で飯を食うな・・・。根拠が曖昧なそんな縛りは到底理解できない。そんなトンデモ自粛指示の中でも特に異彩を放つ(笑)のが、『県をまたいでの移動は控えましょう』というものだ。これら一連の不可解なメッセージは、テレビや新聞しか見ないような情報弱者の中から自粛警察が湧いてくる要因となるのだと思う。『社会全体がこんな時期なのに、自粛しないなんてあんた、他人に迷惑かけてますよ! (はい、私は正しい人間です)と彼らは言う。

 

 案の定我が学園にもトンデモな親があらわれてしまう。いわく、『うちの娘の担任は感染者の多い府県にお住まいですよね? そんな人が授業をして、生徒がコロナになったらどうするんですか?』・・・。ハァ?(笑)   この親御さんは、感染者の数でそのエリアが、要するに空気が汚染されていると思っているのである。だからその地区に足を踏み入れるだけで、またはその地区に住む人であるだけで危険だといってるのだ。ブッ飛んだ理論、ここに極まれり(笑)


 『都道府県をまたいだ移動は控えましょう』というのはあまりにも非科学的ではないだろうか。そんな論をお構いなしに発信、また順守する人でさえ、通勤電車の混雑は構わないのである。通勤であれば混雑していようが府県をまたごうが関係ない。ところがその移動が休みの日になると、途端に人混みは避けろ、府県をまたぐな、と言われることがさも正当なことであるかのような風潮に、およそほとんどのメディアにおいて誰も異論を唱えない。不思議だ。

ウ◯コ製造機

 手足も動く、歩ける、話せる、努力もできるのに、誰かのために働けるかもしれないのに、あえてやらないという『選択』をするような生き方は、私は絶対イヤだ。


 生きるということを考えてみる。大部分の人は自分の命を保つこと以外のことができる。多寡はあれど生きながらえる以外に、余力を持っているということだ。私はその力は自分以外の誰かのために使うために神から与えられたものだと思っている。要するにその能力は自分以外の誰かのために使わなければ、この世に生を受けたものとしての神との約束違反になる。


 生きるための最低限のことも自分一人ではままならない方もいらっしゃる。生まれて間もない赤ん坊や逆に人生の終末期を迎えているご老人がそうだし、不運にも先天的、後天的に障害や病で一人で生きるための機能を失ってしまわれた方々は、前述の立場とは逆に他人の力を必要とする。余力のある人の余力は無駄に遊ばせるんじゃなく、例えば機会を見つけて余力のない人のために使うことを考えるといいんじゃないのかなぁ。


何の目的もなく
何の生き甲斐もなく
楽をしたい楽しいこと以外に頭は使わず
快楽以外のためには何とも闘わず
将来のビジョンも展望もなく
何かになって欲しいという人もなく
反面教師として以外誰の参考にもならず
道を示すことなく
誰にも教えず与えず支えにもならない
誰からも好かれず慕われず
もちろん誰も幸せにしない

 

 周囲にとっては何らプラスにはならないそんな人であっても、唯一この世に生み出し続けているものがある。それはウ◯コである。ウ◯コだけは等しく誰の体からも世の中に発せられているのである。色々なことがままならず、頑張っても叶わない人たちを尻目に、やろうと思えばいくらでも誰かのために働ける、恵まれた有難い立場であるのに、自分の能力は全く使わず、あえて日々ウ◯コを作るだけの人、そんな人のことは、ただのウ◯コ製造機と呼んでもいいのではないんだろうか? 

偏見ですか?

 今やTVをはじめとするメディアはオリンピック一色である。命と引き換えにしてまでやるな!と言って開催に反対していた人(まだしてるみたいだけど)たちの理屈は、私には理解しにくいものだ。『命と引き換え』とはとんでもない論理だと思うが、彼らは交通事故にあう危険を回避するために、車や電車などの公共交通機関を利用したり、海外旅行に行く時に飛行機に乗ったりしないんだろうか? 酒は飲まないんだろうか? 何より観劇やコンサート、プロ野球も観客を入れて行っているが、それら命の危険があるものにも目を向けているなら説得力もあると思うが。ま、そのようなトンデモな人たちを尻目に、日本人選手の活躍は本当に胸のすく思いだ。表彰の時の訳のわからん衣装を除けば(笑)  あれはあかんだろ(笑) 誰のデザインなんだろうか? 許可をした人もした人だが。(失礼極まりないな)

 

 ところでこんなことをいってはいけないのだろうが、どうしてもそう思ってしまうことを吐露する。あくまで個人の意見である。それは・・・サーフィンやスケボー、BMXなんかはそもそもスポーツなんだろうか?ということ。あれをオリンピックでやるの? なんか違うんだけどなぁ。私の中ではゴルフなんかもこれらに近いのだけど、本当にオリンピックでやっていいの?とどこかで引っかかってしまうのである。う~ん、そもそもの話『スポーツ』とはなんだ?

 

調べてみるとスポーツとは、

1.余暇活動

2.競技

3.体力づくり  

として行う身体運動らしいのだが、これではなんだかわからない(笑) 余暇活動で体を使えばそれでスポーツなのか!?

 

 オリンピックが『スポーツの祭典』なのであれば、上記の条件をクリアしているであろう、登山、ダンス、ボーリング、一輪車、腕相撲、雪合戦、釣り、縄跳び、ドッジボールスポーツチャンバラなんかが次なる候補になるのかもしれないが、遊びの要素が強いものならケン玉、ビー玉、ベーゴマ、ヨーヨー、囲碁・将棋、マージャンにパチンコ・・・。いや、それをやることに文句を言うつもりなどない。やりたきゃやりゃいいのである。しかしこれらの競技がオリンピックで競われるようになるのはどうなんだろうか? もっといえば我が美容師の技術だって競えば体を使った競技といえる。事実そんなコンテストはすでに存在している。

 新しい『競技』をバンバン参入させて、ついにオリンピックはなんだか訳のわからないものと化す・・・。これは最悪のシナリオである気がするんだが・・・。

『センセイ』?

 人が人を教えるというのは、ちょっと考えれば崇高で重要なことだとわかりそうなものだが、「先生」と呼ばれることに責任感を感じていない教員は実際に存在する。

 

 例をあげるなら、生活のために選んだ職業がたまたま教員だっただけの人。本人は働く意味を問われれば、格好をつけるために生き甲斐とか生徒の笑顔が喜びとかなどという言葉で 自分の職業を修飾するんだけど、結局その毎日は生徒のためにあるものではないので、ちょっと気に入らないことがあったらすぐ自分には向いてないと考えたり、簡単に退職を口にしたりするタイプともいえる。言い方を変えれば、生徒の将来より自分の気持ちを優先する人だ。経験上なぜか被害妄想が強く、文句だけは一人前であることが多い。


 教員という仕事に特別な価値も持たなければ、当然矜持を持つなどという意味もその価値もわからない。自分が信じる教育上の理想を指導に盛り込むことは教員の義務だと私は思っているが、そんなことは眼中にないから、誰にでもできることをたまたま自分が担当するような仕事の仕方しかしない。ましてや他人や他部署の成績など全く気にしない。プラスアルファを求めず、悪い方で目立たなければいい。しかしこうしてクソミソに言いたい放題に叩いているものの、残念なことに現在の小中高、また我々のような専門学校の教育現場にはこのタイプが少なくないと思わざるを得ない。

 

 思うに良い教員になろうとすると、割に合わないことになる。なぜなら教員としての優れた仕事というものは、掘っても掘っても終わりがなく、『生徒を優先するか、自分や家族を優先するか』のせめぎ合いの連続になるからだ。だから割に合わないのが嫌な人は、初めから教員などをしてはいけないと思う。自分が指導する若者の将来のために汗をかける、またしんどい思いをする覚悟がある人にしか、生徒に対する影響力=求心力のある教員にはなれない。しかしそれらの『苦行』は、あくまで好きでやっているに過ぎない。やらなくても済むのに、あえてやっているのである。完全週休2日、9時5時で残業無しがいいなら、違うお仕事をするべきだ。


 教員たるもの、といえば高圧的に聞こえるかもしれないが、教員であるなら『先生』と呼ばれるに足る自分でなければいけない。足りないところがあるなら、それを埋めようとするのは、努力目標ではなく必達の義務だ。