孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

ウ◯コ製造機

 手足も動く、歩ける、話せる、努力もできるのに、誰かのために働けるかもしれないのに、あえてやらないという『選択』をするような生き方は、私は絶対イヤだ。


 生きるということを考えてみる。大部分の人は自分の命を保つこと以外のことができる。多寡はあれど生きながらえる以外に、余力を持っているということだ。私はその力は自分以外の誰かのために使うために神から与えられたものだと思っている。要するにその能力は自分以外の誰かのために使わなければ、この世に生を受けたものとしての神との約束違反になる。


 生きるための最低限のことも自分一人ではままならない方もいらっしゃる。生まれて間もない赤ん坊や逆に人生の終末期を迎えているご老人がそうだし、不運にも先天的、後天的に障害や病で一人で生きるための機能を失ってしまわれた方々は、前述の立場とは逆に他人の力を必要とする。余力のある人の余力は無駄に遊ばせるんじゃなく、例えば機会を見つけて余力のない人のために使うことを考えるといいんじゃないのかなぁ。


何の目的もなく
何の生き甲斐もなく
楽をしたい楽しいこと以外に頭は使わず
快楽以外のためには何とも闘わず
将来のビジョンも展望もなく
何かになって欲しいという人もなく
反面教師として以外誰の参考にもならず
道を示すことなく
誰にも教えず与えず支えにもならない
誰からも好かれず慕われず
もちろん誰も幸せにしない

 

 周囲にとっては何らプラスにはならないそんな人であっても、唯一この世に生み出し続けているものがある。それはウ◯コである。ウ◯コだけは等しく誰の体からも世の中に発せられているのである。色々なことがままならず、頑張っても叶わない人たちを尻目に、やろうと思えばいくらでも誰かのために働ける、恵まれた有難い立場であるのに、自分の能力は全く使わず、あえて日々ウ◯コを作るだけの人、そんな人のことは、ただのウ◯コ製造機と呼んでもいいのではないんだろうか?