孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

Panie Fryderyk (ポーランド語として正しいかは不明)

 その曲を聴いてどことなく懐かしく、不思議にとても気になったのは、美容師として働き出した頃だったと思う。私は元々ピアノ曲が好きで、自身幼い頃ピアノを習っていたというかなりのお笑いエピソードを持っている。その頃は今ではほぼ使われなくなった練習教本であるバイエルやツェルニーの全盛期であり、ピアノを始めようという子供たちは全員これで練習をした。ちょっとググればすぐにわかるが、これらの教本は現代ではもはや時代遅れであるらしいし、知人であるピアノ講師もそれに同調する。

 僅か4分強のピアノ曲がもたらしたインパクトは私の正常な判断を狂わせた。クラッシックに詳しい知人に、その旋律を口で奏でてそれがショパンであることを突き止め、一枚のベスト盤のLPレコードを手に入れた。その作品は『夜想曲第2番 変ホ長調 作品9-2』というものだった。その時の感動は美容師として働く私をして、心斎橋の日本楽器(ヤマハ)で店内の展示品である電子ピアノを買わせるに至る。私は再びピアノを弾きたいと思ったのだ。当時電子ピアノといえば、打鍵時に重さのないものが大半だったが、私はどうしても本物のピアノのような独特の指への抵抗が欲しかった。しかも本格的な88の鍵盤があるタイプでだ。生活に直接関係のない趣味への18万円もの買物である。35年ほど前の18万円といえば、地位も名誉も金もなく、やっと見習いを終えたばかりの駆け出しの美容師にとってはかなりの金額である。私はヘッドフォンをつけて夜な夜なそのピアノに向かった。そこで愕然としたのは、全く指が動かなくなっていることだった。頭に残る感覚は頭の中でだけ瑞々しかったのである(笑)  技術的な意味における実力というものは、必死に打ち込んだ時にどれだけ深く体に染み込んでいたかが基礎数値としてあり、そこからブランクの年数を引き算した値なのかもしれない。長年やっていなければ引く数が大きくなるので、当然答えはどんどん小さくなっていく。私の場合、黄バイエル(上巻が赤、下巻が黄)が終わっていない内に嫌になって教室に行かなくなっていたから、そもそも基礎数値が低かったし、さらに17,8年ものブランクがあった。体が覚えているだろうと思っていた練習曲は面白いほど弾けなかった。

 その後しばらく情熱は衰えはしなかったものの、いかんせん教えてくれる人も時間も金も無かった。当時はパソコンもスマホも、当然YouTubeもない。そこで一点集中とばかり、ショパンの楽譜を買い、難解極まるその楽譜とにらめっこをしながら音符を読み解くことに励んだのだ。しかし私がチャレンジしたのはショパンである。ピアノの経験がある人に聞けば、きっと100人が100人とも無茶だと笑えるようなギャグでしかない。どの楽譜メーカーの格付においてもかなりの高難度である世紀の名曲に向かう孤独な戦いが始まった。中学時代からギターに没頭していたことで楽譜や和音なんかにはある程度慣れていた私はどこかで楽観視していたのかもしれない。しかしそんな脆弱な根拠に基づく淡い自信は、当然の如く2,3ヶ月もしないうちに脆くも崩れ去ったのだった、、、(笑)

 そのピアノはそれから約15年後に娘が練習することになり、さらにその数年後には私の掴めなかった夢の残骸を息子も使うこととなった。何年かが経ち、2人の子供もそれぞれレッスンをフェードアウトさせたことでピアノは再び長い休息に入ったが、つい最近になり近所に住む、これからピアノを習いたいという少女の話を聞いて、喜んで贈ることにした。何の飾りもないシンプルなデザインだから、35年経った今でも十分用をなす。あの時食うや食わずであったにもかかわらず、清水の舞台から飛び降りて手に入れた時代物の楽器は、幼い少女によって幸せなことに第二の人生を歩き始めた。厚かましいことながら、その子にとって大切なものであってくれるなら、これ以上の喜びはない。