孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

教育における盲目的な勘違い

●「努力は裏切らない」という勘違い

 人生において努力は必要である。輝いている人は間違いなく努力している。しかし悲しいことに努力が報われないことも多い。悲劇なのは、「努力は裏切らない」とすり込まれ続けた結果、努力することそのものが、向上心ある自身の生き方におけるアイデンティティであるかのように誘導されてしまった、筋肉脳人間の存在である。彼らは「頑張る」という伝統を履行することのみに価値を感じている。成果や効率を考えることをせず、とにかく目の前にある与えられたことに盲目的に信じて行う。これを悲喜劇と言わずして何と言おうか。
 あることへの取組みとそれによる成果という意味では、努力は裏切る。実社会において全ての努力が裏切らないことなどあり得ようか。わかりやすくいえば、与えられた業務は自分の責任として、成功させなければならない、または成功に向けて努力をしなければならない。しかしその努力は無駄に終わることも多いのである。かといって努力をしないという選択は許されない。手を抜いた仕事に成果はついてこない。よって裏切らないのは努力した方ではなく「努力しなかった」方だ。マジでこっちは裏切らない。


●「自分」というものの捉え方の勘違い
 いつの頃からか若者が周囲の顔色を過度に気にするようになった。今の若者にとっては「他人から見た自分」が自分の生き方なのである。少なくない若者が、自分が何になりたいのかわからないという。しかしそうなるのは当たり前じゃないか、とも思う。なぜなら自分が無いのだから、自分の意思や考えも無い訳だ。
 以前、自分の主張をしたり周囲の流れに合わせないヤツをたしなめる“KY”という言葉(?)が流行した。個の埋没に汲々とする若者の芯の無さはどこから来るのだろう?と考えたことがある。そして「協調性を持ちなさい」「他人と合わせなさい」と言われ続けた教育の結果なのだという結論に至った。鬱屈した「自分」は水面下に潜る。だから自信はないくせに、決して自分を否定されたくないという人格が形成されることになる。これはうがった見方だろうか?
 さてしかし最近はそのようなタイプの教員が増えてきた。自分を持たず自信のない教員ほど、はみ出した生徒に過度の苦手意識(嫌悪感、敵対心、マウント意識)を持っている。なぜなら言うことに従わない生徒は、自分の教員としての理想を叩き壊すし能力を否定されていると感じているからである。
 恐ろしいのは、そのタイプの教員は、そのような反体制的な生徒をどう押さえ込むかが教育の目的になっているところだ。しかし反面、自分は生徒から嫌われたり否定されたくないから、常に生徒の顔色を伺って彼らの要望は否定しない、まるで孫に嫌われないようにするために金やモノで気を引く老人のようである。