孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

いじめ

 なにかと他人を馬鹿にしたがる奴というのはどこの世界にもいるもので、そんな奴らが人を馬鹿にする時の、チビ、デブ、ハゲ、メガネみたいな古来より伝わりしネタは、時代を超え世代を超えて今に生きる。しかしそんな奴らは別にしても、とにかく人は上下をつけたがる生き物だ。この上下というのがわかりやすく表れたのがマウンティングだ。相対的な生き方が染みついている人は、自分が周囲より劣るということにとにかく敏感だ。だからあるターゲットを決め、その人より自分が優位であることを感じることによって自分の立ち位置を確保しようとする。優越感というのは他人との比較で生まれるものだから、それが欲しければ自分を上げるか他人を下げるしかない。しかし自分を上げるのは難しいから他人を下げる。悪口を言い、冷たくあたり、意地悪をする。コンプレックスを持つ人ほど他人を見下すのである。満たされていないから他人を落として承認欲求を補完する訳だ。

 逆にいじめられる側を考えてみる。若いというより幼いといった方が合うような子供が亡くなったというニュースを聞くと心が痛い。僭越ながら私も指導者の端くれとして、なぜ彼らは死んでしまうのか?死ぬほどの苦しみとはいかなるものか?と考えざるを得ない。常時金品をせびられたとか、暴行や明らかな犯罪行為を受けていた場合などは除外する(こうなると犯罪行為であり、扱う部署は警察になる)が、私がこれまでに経験した事例では、「いじめる」の前に「いじる」というワードがしばしば顔を見せる。いじられキャラの生徒が登校しなくなったりした時、周囲の生徒たちに事情を聞くと「そんなつもりじゃなかった」「本人も喜んでいて仲良くしてると思ってた」と驚いている場合が少なくない。これは一体どうしたことだろう。嫌なことを言われた時に、やめろと言わずにヘラヘラしていることが常態化している絵が目に浮かぶが、なぜ嫌だと言わないのか? 答えはただ一つ。やめろと言えば相手に嫌な思いをさせるし自分との関係が壊れる。対人力のない若者は、友達といえども相手を指摘したり否定したりしない。お互い踏み込んだ意見は控えた、極めて壊れやすいガラスの関係だということだ。こんな関係の中でスクールカーストが形作られていくのだろうか。

 「いじり」が冗談では済まなくなるもう1つのファクターは、いじられる側の精神が単純に弱っちいということだ。前述した「相手を否定する意見を言わない」背景には、自分も「言われたくないから人にも言わない」というセコい気持ちがある。他人からの指摘は自分の人格まで否定されているように感じるからだ。その言葉を「誰に言うとんねん!アホか!?」とかわしたり流したりできず、マトモに全面的に受けとめてしまう不器用な若者のなんと多いことか! そう考えると、意見を飲み込むことで守っているのは、相手ではなく自分でしかないところがわかってこれまた情けない。パソコンやスマホばかりいじってるから、生活力や社会競争力に最も必要であろう対人コミニケーション力が決定的に不足している若者は多い。他人からの言葉に常にビクビクして、友達同士のノリの振り幅が大きくなるとすぐに限界を超えて「いじめ」の領域になってしまう。そんなことを考えると、尾木ママあたりが、「被害者は1ミリも悪くはなく、いじめた方が100%悪い」と公言する論調には私は疑問を持つ。なぜならこれは私の尺度だけれど、「言われた奴が弱かっただけ」ってパターンも実際多いからだ。そんな受け取り方をしなくても、、、と唖然とすることも多く、お前がそいつに直接言えよ!ってことも多い。

 しかし私が最もハラが立つのは、自殺した原因はいじめだったと教育委員会が断定」って奴だな。そんなものが他人がわかるはずがない。自殺する原因なんてまず一つではない。きっかけとして人付き合いが上手くいかなかったことがあったかもしれないが、色々なものが要素として組み合わさっているはずだ。断定するな。あんたらには亡くなった人の心の深いところまで見えないよ。