孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

幸せ

 ここ2,3年、結婚式に参列することが多い。殆どが同じ学校に勤める後輩の式に。ここ数年は地味で金をかけない結婚式多くなっているけど、それでも式の間は全体的にキラキラしているし、何より「幸せ」というワードのオンパレードだ。誰もが結婚式というものはそんなものだ と思っているからか、そこに違和感を感じる人もいないみたいだし当然笑いなど起こらない。しかし私はこの幸せという言葉に引っかかる。


 どうであれば、どう感じるならば「幸せ」ということなのだろう。「お幸せに!」ってどうなることを願ってるんだろう。結婚式に参列するたびにそう自分自身考え戸惑う。もしかしたら幸せを安っぽいものにしてはいまいか?大好きな人と一緒になれるということを、単純に幸せなことだと思ってはいないか?


 「幸せ」とはカップルや夫婦が仲良く暮らすことなのだろうか?優しくされる、大事にされることなのだろうか?反対に伴侶が家庭をかえりみない、とか浮気をした結果、自分が辛い思いをすることが「不幸せ」ということなのだろうか?


 しかし、結婚式で両親をはじめ多くの人々の前で一生の誓いをしたにもかかわらず、幾らも経たない内にあっさりとその約束を破るような人たちも何度も見た。人はそれを「幸せになり損ねた」と評する。かくのごとく幸せとは、自分の気持ちの充実や満足のことを指していることがほとんどである。


 やっぱりそれは違うと思う。幸せの定義は、「自分を幸せにしてもらう」という人の力で成り立つ状態なのではなく、「幸せにしたい誰かがいる」ということ、そしてそのために生きていける状態なのだと思う。back numberの名曲にも朗々と謳われているではないか。


 “幸せとは 星の降る夜と眩しい朝が 繰り返すものじゃなく 大切な人に降りかかった雨に傘をさせることだ”


 その通りだ。自分を幸せにしてくれる人がいることじゃなく、自分が幸せにしたい人がいるってことなのだ。


 10年前の私は、自分の人生は不運なのか?と意地になって、また歯を食いしばっていた気がするけど、最近はもしかしたら私は恵まれているんじゃないかと思ったりもする。家事のほとんどは私がするし、その意味では大変だけど、自分の人生において妻と出会ったことは、私が幸せになるように神が采配した運命であるような気がしている。考えればこれほど幸せなことはないのかもしれない。